冷静に読書なんかしない (2003/01/04)
前回の続きだが、前回は、「失敗したときは自分の中に知恵が足りないから失敗したと考えるべきであって、自分の中に材料(知恵)が足りない状態で失敗の原因を緻密に検討してもネガティブな結論しか出てこないので、まずは自分の外にある知恵を取ってくることが必要なのである」という話を書いた。今回はその自分の外にある知恵を取ってくるということについて、だ。
自分の視点を変えるため、知恵を他人から借りるということでは、内藤は本から学ぶことが多い。本に書いてあることなんて実際と違うよ机上の空論だよ、みたいにしたり顔で言うオトナがいるが基本的に無視していい。まあ内藤も年齢としてはオトナだけど。
内藤から言わせれば、本には驚くほど真実が詰まっている。ただし、その真実にたどり着くには、本は読んで読んで読みまくらないと駄目だし、自分自身も真剣に物事に取り組まないと良い本には出合えない。もし、本なんて役に立たないという人がいたら尋ねて欲しい。今までの人生で何冊読んで、役に立たないと結論を下すことが出来たのか。もし1万冊読んで、くだらないと判断したのであればその意見はそれなりに正しい。でもほとんどの人は1000冊も読んでいない。例えてみれば、ニューヨークとロンドンとパリに観光ツアーに行っただけで、世界中を制覇したかのように語るようなものだ。つまり、何も見ていないのと同じだ。そんな意見に耳を貸す必要はないのである。
内藤はいま本をたくさん買って読んでいるが、それは新しい視点や知恵を借りるためなのである。自分にない視点とノウハウが手に入ることで、今の生活がまったく違うものにできる。だから内藤は書店で本棚を前にするとワクワクする。自分にとっての世界を変えてくれる本に出合えるからだ。
だから、内藤は、書評のプロの作品はともかくとして、冷静に本の批評をしている書き物は読まない。内藤にとっての読書は冷静にいられるものではないからだ。内藤が探している本は、今までの自分の理解が間違っているとアタマをがつんとやられるような本なのだ。探している本は、読んでいる最中にドキドキして、手のひらから汗が出るような本なのである。冷静に書評ができるような、今までの自分の価値観と整合性を持って迎えられるような本を求めているのではないのだ。
内藤が読書に求めている体験は、自分の人生の中に一ページ書き加えられるようなそんなものではなくて、すべて書き換えを求められるような今までの人生を後悔させてくれるような本なのである。だからこそ、目の色を変えて書店を回り、読みまくるのだ。一日でも早くにそうした本に出会いたい。一日でも早くに出会えば、人生を一日でも早くやり直せる。そういうわけで本を買いまくり読みまくるのはそういう理由なのだ。
逆に、そんなに冷静に書評をしてみせる素人というのは、本当に本を読んでいるのか、とまことに勝手ながら内藤は思うのだ。自分の人生を否定されるような本に出会ってないのか、出会っても、自分の人生は決して否定しないのではないかと思ったりする。それとも、客観的なことが良いこと? そんなバカな。人生に客観なんてありえない。冷静な人生もありえない。少なくとも内藤にとってはそれは人生ではない。かたや、著者が自分の人生の主観を本にぶつけて、読者に問うている。それならばこちらも自分の人生をぶつけて闘わせなければ、著者の想いには応えられないのではないか、とも思うのだ。「そういう考え方もあるね」なんて相手をいなす意図ではなくて本気で思ってるとすればとんだキザ野郎だ。人生は主観で進むし、進路は右か左かのどちらかしかない。どっちでもいいなんてのはありえないんだ。オォォォ!!(笑)
というわけで、内藤はとても読書に対して偏った考え方をしている。だから、これを読んでいる人には、「そういう考えもあるね」、とここでは冷静に読んで欲しいわけだが(笑)、読書は少なくとも内藤にとっては生活に潤いを与えてくれるような心地よいそよ風ではなくて、突風のように自分自身を揺さぶり、場合によっては今までの考え方を根底から覆されてしまうようなものなのだ。だからこそ多少無理しても読むのである。
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