小さな分からないことをそのままにしてはいけない (2002/10/27)
分からないことを分からないままにする奴は伸びない。内藤はそう言えると思っている。
この信念は少々徹底している。ありとあらゆる分からないことに対して、分からないままにしてしまう奴は伸びないと思っているのである。例えば、毎日、通勤や通学で電車に乗っているとする。とすれば、電車の動作メカニズムがわからない奴は伸びない。例えば、飛行機に乗るとする。とすれば、飛行機がなぜ飛ぶかわからない奴は伸びない。レストランに入る。前菜で出てきたサラダの野菜の種類がわからない奴は伸びない。料理の作り方がわからない奴は伸びない。建物に入る。建物の工法がわからない奴は伸びない。クルマを運転する。車のエンジンの仕組みがわからない奴は伸びない。スーパーでチーズを買う。このチーズの作り方を知らない奴は伸びない。道路を歩く。道路の作り方を知らない奴は伸びない。
極端かもしれない。でも内藤はそう思う。内藤が言いたいのは、この世の中は不思議で満たされているということなのだ。それらの不思議に対して目をキラキラとさせて「何故?」の問いを問い続けることが伸びるためには必要なのだと、内藤は本心で思うのである。この世のありとあらゆることに好奇心を持って観察すれば、この世の中は仕組みの集合体であることがわかるはずだ。この世の中はメカニズムで溢れている。いや、人間でさえもメカニズムだ。メカニズムでないもののほうが珍しい。
もしかすると内藤のように何にでも、どうしてそうなるのか、と興味を持つほうが異常なのかもしれない。だが、逆に問いたい。こうしたメカニズムに囲まれていながら、そのメカニズムを知ろうとしないでいられる、というのはどういう神経なのかと。
この世の中は何もかもが仕組みで満ち溢れている。その仕組みの量は膨大なので、何から手をつけていいかわからないということもあるし、きりがないとも言える。また、鉛筆の構造と材質を知らなければ鉛筆を使ってはいけない、とか、ボールペンの構造を知らなければ使ってはいけない、などとしたら、普通の人は筆記具は使えなくなってしまう。エレベータの構造を知らなければエレベータに乗ってはいけないとすれば大変だ。この文書はパソコンで打っているが、パソコンの内部構造やOSの仕掛け、キーボードやマウスの機械構造を知らなければ使ってはいけないとすれば、この世の中は成り立たないだろう。
だから、目にするすべてのモノの仕組みを知っている必要はない、ということになるわけだ。「普通は」ね。簡単な話、モノに使われて生きたければそうすれば良いのだ。このメカニズムで埋め尽くされた現代社会では、仕組みを知らないと仕組みに翻弄される。それでもよければ、良いのである。でもそれで楽しいのか?という話なのである。
しかし、この世の中に翻弄されたくないと思えば、この世のありとあらゆるメカニズムを理解する必要がある。この人為的な道具で溢れかえる物質文明の中で、しかも社会的な制度でがんじがらめの中で、モノと仕組みの上に立って生きたければ、ありとあらゆる物と制度の仕組みを理解する必要がある、と内藤は思っている。目に入るものすべてに仕組みがある。それを一つ一つ、疑問に思い、解明していく必要がある。
世の中に溢れるモノの仕組みと、制度の仕組みを理解していくというのは、改めて考えると気が遠くなるように多いかもしれない。だが、一つ一つ解決しないと決して終わることはないのだ。そして、いくら膨大とは言え、終わりは必ずある。さらに、仕組みは頻度と重要性に偏りがあって、頻出の2割程度を押さえれば、全体の8割は押さえたことになる。だからそれほどきりがないものでもない。まずはやろうと取り組むことから始まる。目に入るすべてのことに、好奇心を持って「どうしてそうなるのだろう」と考えて、調べて、学んでいくのだ。そうすると世の中の多くのことがわかってくる。
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こういうことを書く理由だが、わからないことに慣れてしまうことを怖いと思うのだ。人間、あまりにわからないことばかりだと、それに慣れてくる。分からないことだらけであることに慣れてしまう。熱心に学んだり、徹底して考えたりすることをしなくなってしまう。特にオトナになるとそうだ。とするとどうなるかというと、分かっているフリだけが巧くなる。分かってるフリだけしてその場をやり過ごすことばかりが巧くなる。そうするともうダメだ。表面だけフンフンと聞いて分かったフリをすることしか出来なくなってしまう。というのも、「分かった」という基準が狂ってしまうのだ。徹底して考えたり調べたりしないで、分かったフリというゴマカシばかりしていると、本当の意味で「分かった」という状態がどういうことかわからなくなる。これが怖い。しかもそういう分かったフリが許容される環境というのは、実は周囲もみんな分かったフリをしている人たちばかりということなのだ。だから自分の「分かった」というレベルが、本当の「分かった」というレベルからすると程遠いレベルにいることが分からなくなってしまうのだ。これが怖いのである。
要は真実に対して音痴になってしまうということなのだ。音程が分からない音痴があり、味覚で美味い不味いが分からなくなる味音痴というのがあるが、真実に対しても、真実音痴というものがあるのである。音痴や味音痴くらいなら人生は困らないが、真実音痴は人生を踏み誤る。
しかし、実際のところ、真実音痴は結構いる。真実音痴というのは、「分かった」という基準が狂ってしまっているので、お前の「分かった」というのは「分かってないよ」と言ってもなかなか「分からない」のである。学生であれば、テストによって「分かった」のかそうでないのかが判断できる。ところがオトナになると「テスト」がなくなってしまう。また、オトナにとっては教科書付属の問題集のように模範解答がある問題はない。つまり、自分の理解は正しいのかどうかは、明確に確かめる方法があんまりない。それゆえ、分かったフリの真実音痴がいっぱいいるのだ。
真実音痴になりたくなければ、日ごろからありとあらゆることに興味を持って、調べて、考えて、仕組みを理解しておくことが必要なのだ。それによって、まず考える力がつく。そして、理解した世の中の仕組みを蓄積していくことで、整合性という観点で正しそうか間違っていそうかの判断が出来るようになるのだ。この点が大きい。要は、辻褄が合うかどうかである。知識ベースが広ければ広いほど参照できる知識は多くなって、辻褄が合うかどうかの判断がやりやすくなる。真実の嗅ぎ分けは、辻褄が合うかなのである。
だからこそ、小さな分からないことをそのままにしてはいけないのである。小さな分からないことを分からないままにする者は、その小さな分からないことの積み重ねで、大きな分からないことが解決できずに結局は泣くことなるのである。分からないことに慣れてしまうのが一番怖い。まずは、目に入るモノすべてについて、仕組みを知っているか考えて、分からないなら一個一個、調べて、考えて、納得していくことが大切だと思うのである。
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