ストーリーを作り出す能力が必要 (2002/09/29)
ストーリーを作り出す能力というものがいま必要だと思う。正確に言えば、「未来の」ストーリー創作力だ。
高度成長期と、その残りの勢いがあった時代というのは、日本全体の進んでいく方向が結構明確で、そういう「大きなストーリー」にうまく乗っかることが個人として重要だったと思う。また、バブル景気のときも、土地転がしなんかの当時の「バブルのストーリー」に乗っかることが、個人として成功するために重要だったと思う。また、学校や企業においても、その所属する団体がもってる大きな方向性の「ストーリー」に自分がうまく同調して乗っかれば良かったと思う。
ここで言うストーリーとは、現在はこれこれであって、将来はこのようになりたいので、このようにして進んでいく、という筋書きを指している。
社会全体とか、大きな所属団体が、特定の方向性を持って進んでいるようなときは、そこに所属する個人は、その方向性に乗ることで地位を上げていったり出来る。つまり、大きなストーリーに乗るわけだ。これについて、組織の人間としてではなく、個人として人間性を取り戻せとかそういう批判があったわけだけれども、まああまり力はなかった(と思う)。それは内藤は批判の軸が違うと思うのだ。社会全体が大きな流れを持って進んでいるとき、つまり大きなストーリーが説得力を持っているときに、個人がそれに反する小さなストーリーを片手に反旗を翻しても、大きなストーリーに飲み込まれてしまうだけだと思うのである。となると、所属団体でそれなりの地位を得るためには、その大きなストーリーを自分のものとし、自分のストーリーを大きなストーリーの中に位置づけるようにしなくてはいけないし、そうした行動は非人間的なのではなくて、極めて合理的な判断だと内藤は思うのである。
さて。21世紀初頭。日本は大きなストーリーを見失ってしまった。もはや、キャッチアップのストーリーは力を持たない。バブルのストーリーはあだ花だった。アメリカのようにリッチになるぞと目指してきて、アメリカを追い越したと思ったら、それも一瞬のことだったのだ。いま、日本に、説得力のある大きなストーリーはないと内藤は思う。そんなこともあって、大きな組織に元気がなくなってしまった。パワフルなストーリーがないと人間は頑張れないのだ。
そこで個人の時代と言われるようになった。個人を第一に、組織を第二に。しかし、そこにあるのは、俺がやりたいんだからいーじゃねーかよ、と刹那主義と区別がつかない「自分勝手な個人主義」だ。そこにある個人のストーリーなんてあってないようなもの。今の自分が何者かすらわからなければ、将来のビジョンもない。当然にどうやって進んでいくかの筋もない。もしくはあったとしても、非現実的な将来像に、非現実的なルートだ。あまりに貧弱なストーリーだ。もちろん他方、もう少しマシなケースもある。ガイドブックで読んで選んだような人生のストーリーに自分を当てはめていくやり方だ。それはまるで、キャフェテリアで選んだ昼のメニューのような安直さだ。今の自分が何者かすら、メニューの中から無理やり選び、将来像もガイドブックの中から、あれがいいかな、こちらもいいかな、と昼のメニューを選ぶかのように選んでしまう。そしてそこへ至るためのルートは、どこかの学校のそういうコースを選択したり、どこかの企業に入ってこれこれの部署に所属されて、とかいう他人任せのものだったりする。大きなストーリーから離れて個人のストーリーを組み上げる時代になったのに、結局それは大きなストーリーに乗っかる時代と本質的に同じなのである。
自分勝手な個人主義には未来がない。自分が何者か見極めず、将来像も描けないのではその個人の未来は暗い。誰も救ってはくれない。また、キャフェテリア人生プラン式も波間に浮かぶ葉っぱのようなものだ。キャフェテリアを作る側は「需要があるから作っているだけ」だからだ。彼らは何も保証しない。結局、組織任せでは大きなストーリーに乗るのと変わらない。ましてや大きなストーリーが力を持たない現在、それでは不安定な組織の浮き沈みに左右されてしまう。結局どちらも強力な個人のストーリーを持たないのである。
組織の時代は終わった。組織が力強い大きなストーリーを組み上げ、皆がそれに乗っていればいい時代は終わった。そして個人の時代がやってきた。しかし、未だ個人が自分自身の力強いストーリーを作ることは当たり前となっていない。内藤はストーリーを創造する能力がいま何をおいても重要だと思うのだが、ほとんど語られていない。個人として何をするか、ということが今よく問われる。そしてついつい、今何をするかを考えてしまう。でも違うのだ。まずはどういう「ストーリー」を持つかが重要なのだ。個人としてどういうストーリーを持つかで、将来がどうなるかわかるし、そのために今何をすればよいかわかる。大切なのは、「力強いストーリーを作る」ということなのである。現在の自分がどういう者であるのか、将来像はどうありたいのか、そしてそこへ到るルートはどうなのか、それらを徹底して検証していくことでパワフルなストーリーが出来上がる。今何をするかは重要ではないのだ。力のあるストーリーを持っているかが重要なのだ。そして、ちゃんとそのストーリーに従って第一のステップを踏んでいるかが大切なのである。
いや、パワフルなストーリーを作り出す力は人生選択だけではなくて、日常的に必要なのだ。現状を客観的に分析し、望ましい将来を見つけ、そこに到る現実的なルートを定めるというストーリー創作力は、現実のさまざまな問題を解決するのに必要なのだ。ストーリーのクオリティが、その人の行動の解決力などのクオリティを決める。質の高いストーリーを作れる人間は質の高い結果を残せる。すべては良いストーリーが作れるかにかかっている。何をするかではなくて、どういうストーリーを持つかなのである。ストーリーが手段を決める。手段が先ではないのだ。そうでないと、ことわざにあるように、トンカチを持っていればすべてが釘に見えてくる、のである。ま、すべてが釘であれば問題はないが、現実はそうではあるまい。だから手段が先ではないのだ。ストーリーが手段を決めるのである。
今、日本に広く不足しているのはこの優れたストーリーを作り出す力だと思うのだ。各個人がそれぞれ質の高い個人のストーリーを紡ぎ出す力を持てば日本はきっと変わってくる。そう思うのである。
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