インターネットという都会への切符 (2002/09/09)
インターネット接続業者の世界は競争が激しい。結局、「インターネットに接続する」ということではどこでも同じになってしまうからだろう。あとは価格競争だけ。コンテンツで囲い込みといっても、そもそもインターネットが囲い込みに向く特性ではないわけで、ホテルのアダルト有料放送じゃあるまいし囲い込みなんて難しいね。あれだってホテルの部屋の中に囲い込まれてるからカネになるわけだし。そういう点で、こうした接続業者の数年後はどうなっているのだか想像もつかない。
メールアドレスは、接続業者の廃業や合併で移り変わり、もしくは、個人のプロバイダ乗り換えとか就職・転職でも移り変わり、こうなってくると確実に情報が届くのは電話とか郵便のほうじゃないかと思えてくる。現時点では、インターネットは瞬間的に個人が集って情報交換するには最強だが、長期的に見て対照的にこれほど連絡が取れなくなる世界も珍しいのではないかと思う。年中コンタクトしていないと、個人のメールアドレスもウェブサイトもいつの間にか変わってる。いや、ある意味、これをうまく活用してる人も多いよな。移転してそれまでの関係をリセットとかね。そういうのは人間関係にどんな影響を与えていくんだろうとか思う。
ここで、刹那的な人間関係を憂うのもいいんだが、それじゃつまらない。そもそも毎日たくさんの人とすれ違う都会生活そのものが刹那的といえば刹那的であって、いまさら強調するほどのことじゃない。インターネットというのは、単に通信的に「都会」が出来たというだけだ。それまでは一対一の通信しかなかったから、田舎的であっただけなのだ。いまさら「都会」の否定をしてもしようがあるまい。
だからこそ言えるのだが、そもそもそうやって年中コンタクトしていないと切れてしまう関係というのは実はその程度の関係なんだな。解消しやすい関係というのは、それだけ物理的か精神的に距離が遠かったということなのだろうと思う。だから切れる。簡単に切れるということはその関係においてそれだけ自分自身が部外者だったということ。もっとコミットしていれば切れにくい。逆に言うと、関係を継続したいなら、それだけ継続するだけの努力をしなければいけないわけだ。
このインターネットという都会化した通信環境はヤジウマの文化である。というか、都会というものが部外者の見物人というヤジウマを産む仕組みになっている。だから何かイベント(祭り)があると、バーっと寄り集まってくるけど、実はみんなヤジウマだ。何かに関わったつもりでいる連中もいるけど、それは自身がヤジウマであることに気がついていない。みんながある件に簡単に首を突っ込んだつもりになれる。それが都会の良さでもある。いまこの現在、ここで起きていることを見物できるのだから一体感がある。これが都会の魅力であると内藤は思う。
だがまあ結局のところみんなヤジウマに過ぎない。本当の出来事の中心からは物理的にも精神的にも距離が遠い。だから簡単に冷めるし、関係が切れてしまう。イベントから急速に冷めたりとか、「あの人」と連絡が取れなくなってしまったり、というのは多くが出来事の部外者であることに理由があると思うのだ。
インターネットという高速に個人同士が情報をやり取りできるネットワークというものは、参加者の多くに何かに首を突っ込んだ気持ちに簡単になることが出来る「都会への切符」を提供してくれる。それが他に替えがたいメリットだが、逆にその自分自身の身分のヤジウマ性に気がついていないと一人で踊ってることに気がつかない。あくまで出来事はPCの画面の先にあるからだ。本当に何かを変えたければ、PCの画面の先の出来事のほうにコミットしなければならない。
まあでも、そうしたヤジウマになることすら、熱心にその話題に参加していないと出来ないわけで、インターネットはヤジウマ参加ムーブメントと言えるのかもしれない。インターネットの各所で起きるイベント(祭り)の楽しさを味わうためには、インターネットのあちこちを探って回り、見世物を探す熱心さが第一に必要だ。そうした熱意なしには、イベントへの参加もままならない。インターネットという通信の都会の喧騒は味わえない。まずはこの喧騒を味わうことが大切だと思う。で、さてその先は? なのである。答えはPCの先にある。内藤もまだ探している。
んー、まあなんかアリガチな結論だけど、とりあえず書くのが楽しかったし。
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