ビジネス本マニアックス

内藤による働く人のためのビジネス本紹介サイト⇒自身の30歳の就職活動についても書いたり。10年くらい更新止まっています。⇒「はてなダイアリー」から「はてなブログ」へ移転しました

自己啓発ネタが多い理由を考える (2002/05/20)


  どうして内藤は自己の向上ネタが多いのかなと考えていたのだが、どうも内藤は、成長したいという気持ちが人一倍強いようだ。とにかく少しでも向上したいので必死になる。ある意味、不幸なのかもしれないし、そういう回路が出来てしまっているのは良いことかもしれない。


  いつからそうなったのだろうと考えるのであるが、高校生のころを考えても、いまほど自己の向上は熱心ではなかった。ただ、もともと探求するのは好きで、物事はよく考える癖はあった。素質としては子供の頃からあったとは言える。しかし今の状態とはほど遠かった。このように自己の成長に邁進するようになるのは20代に築いた習慣のように思う。それも20代を進むにつれて加速していったように思う。最初にそうなったきっかけというのは簡単なことだった。いや簡単なことだったと思う。具体的に何だったかはもう覚えていない。確か、自分自身がずっと抱えていた奇妙な思い込みに自分自身で気がついた。で、ハッとして、考えを進めていくと、別な思い込みや自分自身に課していた妙なルールに次々と気がついた。アレ、なんでオレはこんなことしてたんだろうという感じで、ひとつ気がついて、さらにそこらへんを掘っていくと今まで自分自身で見えなくしていたものが見えてきた。すると面白いので、物を見たり考えたりするときはその経験を使って、本当はどうなのか、見えないものを見えるようにするためによく考えるようになった。


  ただ、そういうのは自分自身の中を見つめるというだけのことなので、自分の外、つまり社会について考えるようになったのは大学に入ってからだ。5年浪人して入った大学はつまらなかったが、不貞腐れてもしようがないので、とりあえず本の山を掘ることにしたのだ。最初は何か見つかるなんてあまり思っていなかった。なんか見つかったらいいな、くらいの気軽な気持ちだった。サークルにも所属していない内藤はそれくらいやることがなかったのだ。ここでも、おや何か面白そうだぞ、といくつかの本に出会う。読み進めていくと、なるほどそうだったのか!、ということの連続だった。そこで本を読み漁ることになる。そのころは日経も熱心に読んでいた。一日分の全記事を数時間かけて読んで切り抜いていたのもこのころだ。図書館にあった経済系の雑誌もよく読んだ。それでだんだん気がついたのは、新聞の記事だが、大新聞社といっても記者や編集委員がすごい教養人というわけでもないんだな、と思うようになった。むしろ、あまり勉強してない人が多いんだなと思うようになった。


  また、自分の外というのは、社会についてという大きなマクロな話だけではなくて、自分と他人というミクロな自分の外との関係もあるんだが、こちらも内藤は苦手だった。ひとが苦手だったのだが、こちらもバイトをするうちに、そうでもないんだなと気がついて、接客のバイトをステップアップさせていった。そこで分かったのは、接客が出来る人間というのもそれほど多いわけじゃないんだな、ということだった。特に、高いレベルの接客が出来るのはほんの一部でしかないと思うようになった。今は営業をしているが、こちらも高いレベルの営業能力を持ってる人はそれほど多くないものなのだなと仕事を学んでいくうちに思うようになった。


  誰しもが物事を突き詰めて考えたり、努力したりする人ばかりではないのだった。これは内藤の視野が広がるにつれて分かったことのひとつで、分かったときはちょっと驚いた。というのも本で社会を学んでいた内藤にとっては、理想に燃えて頑張る人が多数だと思い込んでいたのである。いやまったくアホであった。実際は逆だった。それだからこそ、理想に燃えて頑張ることが賞賛されて本に記される意味があったのである。と、このような経験をすると、「本ばっかり読んでてもダメで現実を見ろ」と説教を垂れるようになるかと思うが、内藤はそうは思わなかった。というのも、盲目的にただ黙々と仕事をしている人をいっぱい見たからだ。それでは何年たっても何の進歩もない。つまり、いくら現実を経験したって、そこから経験を蒸留して知恵を得るというのは相当の情熱と知能が必要なのだ。そこからすると、本を読みながら実経験と照らし合わせたほうがずっと近道だと思うのである。話がそれたが、皆が皆、毎日適当に送る人たちかというとそうではなくて、ソコソコでいいやという大勢の人たちの反対側には、よりよくなろうと努力する素晴らしい人も知った。そういう人たちとの出会いこそ、価値があると思うのである。それで今は、そういう姿勢の人を意識的に探すようにしている。内藤にとって興味のある人とは、第一に志がある人であり、次に、他人をしあわせにする心がけのある人である。志のない人には興味が持てないし、他人を不幸にする人は許せなく思ってしまう。


  まあなんというか、とにかく内藤の場合、やってみると意外に面白くて、苦手と思っていたり難しいと思っていたことが、ちょっと掘ってみると面白いので、ほかにやることもないというわけで、どんどん掘り進んでいった、という感じなのである。掘り進むためには、要は自分のスキルアップが必要なので、どんどん勉強して実践して行ったというところなのである。とにかく深く掘れば掘るほど面白かった。ここを掘れば何か出てきそうだとワクワクしていたので、そのために必要なスキルは必死になって学んだ。そういうことをするうちに、勉強していけばいくほど面白いことに出会える、ということが内藤の快楽のパターンとして確立したと思うのである。でもパターンとしてぼんやりと確立したのでさえ数年前のことだ。それまではとにかくやることがないから掘っていたのである。もちろん淡く期待はあったが、今のように確信があったわけではなかった。


  また、内藤の場合、長く受験生活を送り、毎年試験で落とされて、自己否定の目に遭っていた。というわけで、20代の内藤の人生は「はやく人間になりたい」というような妖怪人間ベムのような気持ちでいた。ひどく屈折していて、劣等感でびくびくしていて、胸を張って歩けるようになりたいなあとずっと思っていた。もちろん、構わずいつでも胸を張って歩けばいいのだが、当時は「〜になれば胸を張って歩ける」という不健全な思想に冒されていたのである。つまり、このままでいるとダメ人間になってしまうという恐怖が常にあったのだ。そしてそれは今もある。


  つまり、内藤にとっては、現状に留まっているともっとダメ人間になるという恐怖があり、それに追っかけられるので走るというのが絶えず努力するひとつめの理由であり、ふたつめの理由は、まだ見えない先のほうに希望があるということを知ったので、とにかく前方に向かって走るということなのである。偶然であるが、後ろに恐怖、前に希望というパターンが作れたのであった。そういう点ではラッキーだったかもしれないと、そんなことを思ったのだ。


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