ビジネス本マニアックス

内藤による働く人のためのビジネス本紹介サイト⇒自身の30歳の就職活動についても書いたり。10年くらい更新止まっています。⇒「はてなダイアリー」から「はてなブログ」へ移転しました

2005-05-26 マスコミとブロガーとネチズンと


  内藤は、ここで書いている分においてマスコミには批判的だ。まあ何事も「批判的」であると知的に見えるという見栄もあるし、ネタとして書きやすいということもあるのだが、実のところ、マスコミは重要な存在だと思うし、便利にしている。ただ、マスコミの報じることは、見ていると時折妙なことを言っていたりするので、鵜呑みはよくないよ、ここ変じゃない? というスタンスなのである。


  大切なのは、マスコミの報じたことが正しいか正しくないか、という話ではなくて、自分が社会で起きている出来事に対してどう考えて、どう振舞うか、ということだと思うのである。だから、マスコミはこう言ってるけど、僕はそうは思わないよ、そうは行動しないよ、という話のネタとして使ってる。


  そんなことを書くのも、マスコミ対ブロガー、みたいなスタンスの文章をいくつか読んで違和感を感じたからなのだ。ブログが流行ってけっこう経つ。でもって、個人が意見を表明するのに便利だから、マスコミの論調に対して、それとは違う意見表明の波がブログをザザザと波立たせていくような感じで広まる動きがあって、それはそれで面白いと思うのだが、しかし、マスコミ対ブロガー、みたいな図式は成り立たないと思う。これは内藤の個人的な感触なんだけど。


  ブログが面白いのは、今起きていることとか、それぞれ個人が興味あることとかについて、何らかの個人的な見解を書くのだけど、同時に僕らは、みんなどう思っているんだろうとウェブで探して見てみる、そして、ああ同じこと感じてるんだなー、と仲間を見つけたり、これは僕と違うな、と反感持ったり、なるほどそう考えるのかー、などと感心したり、こういうことが連鎖的に発生できるところだよね。


  ブログという更新しやすい、そして、いろいろな形で読み出しやすい、検索しやすい仕組みは、今起きていることとか、僕らが興味があることについて、個人の考えを、ほぼリアルタイムで、トラックバックやらgoogleの検索やらでたくさん見つけて一気に読むことが出来る。今までのHTMLのウェブページだと、更新が大変なのでリアルタイムにウェブに載っていなかったり、検索に引っかからなかったりするので、リアルタイムに見ることが難しかった。2ちゃんねる掲示板は、リアルタイム性はよかったけど、情報を拾い集めるのが手間だった。まとまりがなくてスレッドの最初から最後まで目を通さなければならなかったり、匿名なので、ある書き手を一貫して読むとか難しかった。


  そんなわけで、ブログは、今起きていることについて、他の皆はどう考えているのか探るのにとても良いし、それが書き手も読み手もお互いに共鳴できるしかけになっている。ブログツールの持ついろいろな仕掛けは、個々の書き手がどんどんいろいろな音色の楽器を鳴らして、それが場合によっては共鳴していくような機能がある。これは凄く面白いことなんだけど、だからといって、その「共鳴」は、世論とは違うと思うのだ。これは本当に個人的な感触なんだけど。


  例えば、尼崎のJR脱線事故で、記者会見で横暴な記者に対して反感を持った個人がブログに書く (内藤もだ)。それが共鳴していって、内藤も「ああ、みんな不快に思うんだな」とか思うし、他の人もそう感じた人が多いだろうと思う。そうする流れは、一種の共鳴であって、なんとなく「世論」っぽいものが形成されているような感じになる。それで、マスコミもそれを感じ取って対応したりすると、マスコミ対ブロガー、みたいな見方をして、ブログによるマスコミへの影響力を論じる人もいるけども、内藤はやはり違和感を感じる。


  これは世論とは何か、という話なんだけど、内藤からすると「世論」というのは、もっとマイルドな感じなんだよね。ブログで共鳴する意識って、かなり急進的というかラジカルなものが多い。ブログは個人が、何かモノ考えて、主張してるものが多いからね。でも、世の中が動いていくベースとなる世論はもっとぐっとマイルドなものと思うんだな。世の中の大多数の人はそこまで急進的に物事を考えてはいないと内藤は思う。だから、真剣に考えている人が書くブログで共鳴して出来た意見よりも、実際のところの世論はずっと穏やかだ。そして、そもそも、ブログ書く人も読む人も実のところ、世の中で言うと比率としてすごく少ないと思う。大多数はブログを読みもしなければ書きもしない。そういう認識で内藤はいるので、他の人の意見と共鳴したとしても、自分の意見が多数とは必ずしも思えないし、自分の意見が世論と一致したとも思えないし、マスコミ対ブロガー、という対立の図式で捉えられない。そもそも、似たような発想の「ネチズン」も好きな言葉ではない。


  つまり、ブログはマスコミとか企業とか、場合によっては政府の行動に影響を与えないというわけではないと思うのだけども、ブログによって先導されるわけではないと感じるのだ。むしろ世の中は世論によって動いたとみるべきで、世論というのは、グッとマイルドなものだ。ところが、世論はマイルドなので分かりにくい。その点、ブログで見られる意見は世論を先鋭的に表現していることがあり、結果的に世の中は動いたりするが、ということが内藤は言いたいのである。


  さらに、内藤は、そういう対立図式で見るのが嫌いだ。そういうグループの対立として捉えるのには、すごく違和感がある。なんか違うんだよなー、というか。もうグループの一員として括ってしまう考え方なんてのはもういいじゃない、というか。もうね、そういう括り方は飽き飽きなんだよね。個人がこうやって情報発信出来る世の中というのは、すごい変化があると思う。しかし、なんていうかな、インターネットは情報の流通を独占しているマスコミを打ち破る力、というのは違う意味の変化があると、内藤は最近思ってる。


  これからもマスコミの意義は変わらないと思う。起きた事件やら考え方とかを非常に多くの人に一斉に伝える力というのは、やはりマスコミでなければ駄目だし、重要な役割なので代替できない。大多数の意見を取りまとめることはマスコミにしか出来ない。ここでも、マスコミ対インターネット、という対立図式は無効な見方だと思う。だから、冒頭の、内藤はマスコミが流す情報を便利にしてますよ、という話になる。


  それに対して、インターネットは、個人が自分の意見の旗を立てる感じ。全体としてみれば、いろんな色の旗が無数に立つ感じかなあ。対立ではないんだよね。無数の、いろんな考えが出てくるというか。


  ところが、いちいち、自分を○派とかに分類して見なければいられない人たちというのがいて、そういう発想でモノを考えるのが凄くイヤという話なんだよね。僕はこういう集合の論理で考えるのが特に最近嫌いになった。ドコソコに所属している一族というふうに人をひとくくりにする見方ね。


  だから、インターネットやって意見言ってると「ネチズン」なんて自分自身をグルーピングして言う人も気持ち悪いし、そのようにグルーピングされるのもイヤだし、ブロガーとしてマスコミに対抗したような話をする人も気持ち悪いし、ブロガーとして括られるのも気持ち悪い。


  こういうのは他にもあって、例えば、JR西日本が事故を起こせば、JR西日本に雇用されている人間を、JR西日本の社員という属性で人間を考えるとかね。事故の最中にJR西日本の人間が酒飲んでた、みたいなのは、もう凄く気持ち悪い。それの何が悪い、っていうか。じゃあ、もっと大きな属性である日本人で捉えないのか。日本人がたくさん死んだんだから日本国中喪に服さなくていいのか? もちろんしない。このグルーピングの論理はとても恣意的なのである。国際間で、日本人やアメリカ人や中国人というグルーピングまではなんとか許せるが、細かなグルーピングする意味が分からないので嫌いなのである。


  というわけで、最後まで書いてみると、自分自身がグルーピングされることに違和感があると分かったのであった。