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大学受験5浪したときのこと。そこから得たこと。(中編)

前回の続きです。
大学受験5浪したときのこと。そこから得たこと。(前編)

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大学受験5浪したときのこと。そこから得たこと。(後編)


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前回の話は4浪目を決意したところで終わった。


4浪目を安直に決意した当時の僕であったが、そう決意したのは受験で上手くやるためのめどが立っていたからでもあった。そのきっかけは1浪目にさかのぼる。


1浪目の予備校に通っていたとき、クラスメイトに六甲学院から来たAという同級生がいた。受験はテクニックであるということを彼から学んだことが大きい。そのときのクラスは、京大阪大神戸大クラスというアバウトなクラスで、6名の少人数クラスだった。Aは京大志望、僕はとりあえず神戸大志望だった。


Aは、「俺のうちは公家の家なんや」というのが口癖の少し自慢気な男であったが、名門高校出身だけあって受験技術に長じていた。ちなみに六甲学院は神戸では中高一貫の名門で、僕の時代のころの認識では、灘中の次のグループくらいの難易度だった。つまり、難関であった。


そのAから聞かされる受験勉強の要領は目からウロコが落ちるようなことばかりであった。僕は公立高校出身で、「浪人して、まあ、神戸大の工学部にいければいいだろう」程度の、いろんな意味で物事を甘く見ていた。それに対して、彼はもっと具体的に東大や京大に受かる方法について知っていた。そして、「灘のやつらはもっと凄いんや」とよく言っていたのを覚えている。たぶん、六甲学院は難関だが、彼からすると灘はさらに難関で多少の劣等感があったのだろう。


どうやら、そういう受験界においては、既に多く判明している効率の良い勉強方法があって、そういう学校に通っている連中はそういうのが当たり前になっているということのようなのだ。


ちなみに、僕の出身校は、関西にある私学の関関同立に行く者が半数くらいで、あとは関西各地の国公立大学に行くというような高校だった。僕は自分の高校のレベルをそうは悪くないと思っていたが、その認識はまったくの間違いであると彼と会って知った。僕の出身校のレベルと比べて、六甲学院出身のAに圧倒的な情報格差を感じたのはそのときで、そういう「格差」というものを強く意識したのはこれが最初だった。


大学受験は事務処理能力のテストといった側面がある。そのため、どういう教材をどういう風に、いつ使うかという点で効率の良い方法というのは編み出されていた。そういうノウハウを知ると知らないとでは雲泥の差を生んでいた。


トップクラスの大学に進学する生徒が多い高校では、ノウハウは学校の先生が教えてくれるのではなく、学生の間にそうした情報が当たり前に存在して先輩後輩関係や同級生を通じて共有していることが分かった。それを利用して生徒は受験に活用しているのだから、どの高校に通うかでの差は開くばかりだ。情報の差が結果の差を生むという一例を実感として感じた。


それ以来、人生で「情報格差」を常に意識するようになった。情報格差は大きな結果の差を生むということが自分の中に教訓として埋め込まれた。


知は力という。確かにその通り。この経験から、知らないということが、うっかりしていたということでは済まされないくらいの差を生むと学んだ。


例えば、現在、自分が準拠している集団の常識と比べて劣っていなければいい、ということで安心を得てはいけないのだ。その集団のレベルが世の中全体でいうとレベルが低ければ、世の中全体の中での勝負には太刀打ちできない。同じレベルの素質、同じレベルの努力量であっても、ノウハウや知識のある無しで大きな差を生むなんて口惜しい話ではないか。


以後、僕は世間の中で僕はどの程度のレベルにいるか、この分野での自分の知識レベル、ノウハウのレベルはどの程度かを強く意識するようになった。常に自分のレベルと世間のレベルを意識しだした。また、本を大量に買い込んできて学ぶようになったのもこの頃からで、レベルの高いところに行くように努めたり、レベルの高い先輩、上司に食いついて教えてもらうようになったのも、この経験から得た教訓によるところが大きい。


僕が4浪するにあたり、東京に単身で出てきたのは、神戸という中心部から離れたところにいるのは不利と感じたからである。その後も、レベルの高いところで仕事する、学ぶという行動指針を常に取るようになったのであった。ただし、仕事はステップアップという発想もした。それはまた別の機会に。



というわけで、話を戻すと。

僕は4浪目を迎えるにあたり、勉強法は分かったが、場所は東京で行うべきと考えた。働きながら学べる環境としては新聞配達が一番ベターだろうと見た。それがいいかどうかは今から見ても何とも言えないが、いろいろ多くのことをまたそこから学んだことも確かだ。


新聞配達をするについても、条件の違いもありそうと思った。求人誌でいろいろ探してみると、条件のよさそうな都内の読売販売店を見つけた。ドキドキしながら、電話かける。働きたいと伝えて話を聞いた。3月上旬の金曜日のことである。


ところが、どうも販売店の方(後で数店舗経営している社長さんと分かる)は優しいのだけども、来なさいとは言ってくれない。志望者も多いし、とか。君が本気でやる気があるのかどうか、という。


電話ではラチが開かないと考えた僕は「では、御社に伺えば判断していただけますか?」と尋ねると、「平日に来てくれたらいいよ」との返事を得た。僕はもっとも安く東京に行く方法を調べ、高速バスで安く行けることを見つけ、その日のうちに両親に話をし、日曜の夜には神戸から高速バスで東京に向かった。押しかけたわけである。このとき、電話をした翌々日には東京に向かっていて、やけに度胸がいい。自分でも良く分からないのだが、なぜだか追い詰められるとむしろ積極的に事に向かう傾向が僕にはあった。そのおかげでその後のいくつかの難局も乗り越えられたりしたと思う。困ったときは行動したほうが事態は打開することが多い。


月曜の朝、都内の最寄駅からその新聞店に電話をすると、先方の方は驚いた声を上げて「よく来たねー」という。迎えに行かせるから待っていなさいと言われ、しばらく待つと、配達のおじさんが自転車で迎えに来てくれた。その自転車の後ろに乗せてもらって店まで行ったことを覚えている。お店に着くと、販売店の会社の社長さんが急に来たことを驚きつつも喜んでくれて、いろいろ話を聞いてくれた。


その社長さんが言うに、そのお店は今年の採用は満杯になってしまっていてね、と残念そうに言う。でも僕の知り合いのお店でいいところがあるから紹介してあげるよ、と言ってくれていくつか電話をかけてくれた。しばらくすると、紹介先が決まったようで、そこがお世話になることになる都内の下町にある販売店だった。その社長さんはクルマで案内してくれながら、修行時代にその所長さんにお世話になったと言う。


ちなみに、この販売店の社長さんは、会社形式にして複数店舗を経営している二代目だった。読売の新聞販売店はオーナーがいる独立の販売店が多く、力のある販売店は数十店舗を経営している。販売店の店舗もオーナーの持ち物であることが多く、読売新聞が戦後に部数を急拡大させたのは、正力松太郎のエンターテインメント重視のメディア戦略だけでなく、販売面でもこうした独立した販売店の力によるところが大きいように思う。


僕はその店舗を案内され、それではお世話になりますとあっという間に話がまとまる。この社長さんには東京駅まで送ってもらい、とても親切にして頂いた。このときの経験から、いざというときは押しかけると人生は道が開けるというのも学んだ。


神戸に戻った僕は、働く店を決めたことを両親に伝え、引越しの準備をして3月20日頃には、販売店の用意している下宿に引っ越した。そこから新聞販売店での人生が始まる。


新聞配達の仕事は、最初はなかなかに大変であった。



(後編につづく)


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