大学受験5浪したときのこと。そこから得たこと。(後編)
前回からの続きで本編最終回です。
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今回は4浪目を新聞配達の住み込みで開始するところから。
新聞配達をすることを決めた僕はその年の3月下旬には引越しを終えて、新聞配達の仕事をはじめることになった。
ここの新聞配達のシゴトは、朝3時くらいから始まる。
この店は、みな住み込みで働く新聞奨学生ばかりの店だったので、そのころに起き出して店にやってくる。郊外の店だと、アルバイトの主婦の人が家から来るところもある。
新聞奨学生というのは、新聞社が各社で制度として運営している。学生は新聞配達をする代わりに生活費と学費を出してもらうというもの。一見すると、福祉事業に見えるが、そういう学生支援事業として思って入るとエライ目に合う。とはいえ、オカネがなくて何とかして学校代を稼ぎながら学びたいという子には悪い仕組みではない。要は文化事業的な普通のビジネスだ。
新聞販売店というのは新聞社とは別経営の小売店舗だ。直営店もあるが、とりあえず別と考えたほうがいい。この新聞販売店の求人難はかなり以前からあった。早朝に働くということと、休みが無く、雨の日も仕事があり、仕事がキツイという評判があり、加えてあまり社会的な地位が高くないというのも不人気の理由だ。他方、新聞配達の労働は早朝と夕方という特徴から、新聞配達をしながら学校に通うことが可能だった。
それらを合わせて、新聞社が運営する奨学会が学費を貸し出し、販売店に学生を紹介し、学生は働きながら、給与の一部から学費を返済する仕組みが作られたのであった。読売は1964年、朝日は1968年に開始している。
新聞配達の仕事は、それなりに収入が得られるので、生活費と学費をまかなうくらい難しくない。それをうまく制度化していて、求人に困る新聞販売店と、学費に困る学生の双方が損をしないWin-Winなシステムではある。ただ、まあ、仕事はラクではないが、いい制度ではあると思う。ただし、工学部の学生など実験などで時間が多く必要な学生だと仕事時間と勉強時間の両立が難しいケースを個人的に知っているので、理科系大学生は避けたほうがいいような気がする。
業務は、配達業務と集金業務があるが、配達業務は必須だが、集金業務は店によっては選べる。店が集金専門のパートの人を雇っている場合、奨学生は配達業務だけという形で僕もそうだった。集金業務はきついので避けたほうがいい。労働が夜になるし、いつ行っても会えないお客さんとか出たりすると長引きやすい。繁華街だとガラが良くないお客さんがいるので対応が大変だ。他方、集金業務もやると収入は良くなる。学費が高い専門学校に行く場合は集金業務を選ばざるを得ないこともあるが、新聞奨学生で勉強するなら集金業務は選ばないほうがいい。もし勤める店が集金業務が必須なら店を変えたほうがいい。
新聞奨学会では、各販売店を指導して待遇改善を図っている。待遇改善は求人のためでもある。部屋の広さやキッチンのあるなしなどがアピールできると学生を勧誘しやすくなるのだ。例えば、N新聞は、女の子の奨学生には部屋にミニキッチンがあります、といったふうに集客のため工夫している(当時)。それに釣られた女子は多いが、そういう店は仕事がキツい(ことが多い)。N新聞専売店は都内にあるが仕事がキツいので知っている人間は敬遠する。そこで、こういうふうにアピールポイントを作るのだ。営業会社で仕事がキツい会社が、会社の厚生施設をウリにするのに似てるかもしれない。(仕事のキツさは当時の話でもあるし、主観も含むので興味のある人は実際に確認してくださいな。)
販売店の収益構造はシェアが低下すると急激に悪化する。つまり、都内だと、読売、朝日以外のの単独店は経営が苦しいところが多い。
というのも、配達網というのは部数に対して比例的にコストがかかるわけではないからだ。ある程度のエリアを維持するのにそれなりに人員が必要になる。シェアの低い新聞は、配達エリア内の顧客密度が下がる。密度が下がると同じ部数配るにしても配達時間が多くかかる。配達時間というのは部数に比例する関数であるよりも配達面積に比例する関数なのだ。つまり、地域の市場シェアが半分の新聞の販売店は、シェア倍の販売店に比べて売り上げは半分だが、コストは同じくらいか2/3くらいはかかる。しかも、シェアが低い新聞販売店の仕事はコストを切り詰めるために労働時間が長くなりやすい。
また、売り上げ面でいうと、新聞販売の売り上げでは基本的には販売店運営費が出るくらいというのもポイントだ。儲けの多くを折込チラシに依存している。折込チラシは、新聞社の子会社経由で大きなエリア全体に配布されるものから、販売店単独で注文を受けているものまであるが、1枚○円という単価で受けている広告費収入が販売店の経営を支えている。シェアが2位までの新聞には折込依頼が来るが、3位以下は格段に少なくなる。シェアの低い新聞の販売店は売り上げ面でもキツい。
コスト面、広告収入による売り上げ面の両方から見て、新聞販売店は販売シェアが経営上最重要ファクターとなっている。実はこの構造は新聞社自体も同じで、新聞社自体も広告収入を主な収益源としている。つまり、新聞業界は本社から販売店に至るまで実は広告モデルで昔から運営されているのだ。ゆえに、激烈な販促競争が行われる。ネット企業が無料でいろいろ提供してユーザを掻き集めるのと同じなのである。
地域によっては、シェアの低い新聞は、他の新聞の販売店に配達を委託しているケースもある。ただし、この方法があまり進まないのは、販売店は営業拠点でもあるため、他紙について熱心に勧誘することがないからだ。
というわけで、シェアの低い新聞の単独店に入店すると、仕事は他店の1.5倍で給与は低く、休みがもらえないなんてこともありえる(当時)。ホントに実際に激しい待遇格差があった。休みがないというのは、労働法的に問題があると思うが、僕の時代にはまかり通っていた。しかも、そういう場合は、学費を出してもらっているので、学生は店も移れず、ただ黙々と働くしかない。情報格差がこういうところにもある。そういう販売店の経営はギリギリで、そういう店は店主が耐えかねて夜逃げしたりする話を聞いたこともある。
休みについて言うと、新聞は月に1度の新聞休刊日以外は配達がある。この休刊日も90年代に各社で歩みを合わせて月1回まで増やしたのだ。80年代は新聞休刊日は年に数回である。その休刊日以外には新聞は休みがない。だが、学生には週一で休ませるために、代配という制度を持っていた。
これは割合とうまいやりかたで、休みの人の区域を配る専門の人間を使うもの。もちろん、休みと言っても皆がいっせいに休むことは出来ず、皆が週のうちで交代で休んでいく。その休みのときに代配が配るのである。代配は、週に4-5地域を順に配って回った。毎日違う区域を配ってもミスしない人間がやっていた。店によってはその仕組みをアルバイトさんに配ってもらうところもある。とにかく、マトモな店だと週に一回はフルで休めるということなのだ。
経営が苦しい店は、代配を雇う余裕がないので代配がいない。ゆえに、奨学生も休みがなくなったりする。これはちとキツい。店は選ばないと駄目である。もちろん、そういうところの店主も365日休みなく働く。まあ、だからこそ、学生はキツくても、そういう店主についていってしまったりするが泣くに泣けない。
住居について言うと、住み込みは、店の2階より上が寮として作ってあったり、近くの住宅を借り上げていたりする。部屋の待遇は、年々改善されていて、1人あたりの広さも3平米という時代もあったが、僕がするころには広くなりつつあった。僕は店の近くの古い一軒屋(風呂なし)の二階に住んでいた。一階に住む人間とシェア。6畳くらいだ。
また、店によっては専業さんといわれる、新聞配達専門の社員が多いところもある。都内はY新聞に専業さんが多い。専業さんは、まじめな人から、どこかからの流れ者であったり、いろんな人がいる。専業さんを多くするかどうかは販売店主の経営方針次第だ。若者を育てることをしたいという人は奨学生を多く入れる。一般的には専業さんが多くなると揉め事は多くなりやすい。
ちなみに奨学会は、学生の出身地を分けて店に配置したりしている。僕がいた店は北海道と千葉となっていた。地元が近いとお互いに励ましあえるだろうという配慮で、なかなかに思慮深い。
かなり話がわき道にそれたが、新聞配達の仕事についてみてみる。
新聞配達の仕事は朝3時に起きて、ジャージなどの動きやすい服に着替え、販売店に向かう。
服については秋冬用のブルゾンは販売店から支給がある。読売新聞の子は緑や黄といったカラフルなジャンパーを着ている。これは毎年支給されて年によって色が違う。おそらく配達員に専業さんが多い関係で毎年支給するのではないかと思うが定かではない。こちらは軽いが耐久性はそれほどない。朝日新聞の子はライトグレーのブルゾンで左側の袖がグレー色になったのを着ている。これは就業時に支給されて何年も同じものを着る。その分、つくりは丈夫だ。袖がグレーなのは新聞を脇に挟みこんで汚れるからで合理的である。朝日新聞は新聞奨学生などが多く長く使うからではないかと思われるがこちらも定かではない。
新聞配達は朝が早い。この始業時間は実は店によって違う。新聞が店に配送される時間が店ごとに異なるのだ。配送ルートによって決まっている。都内最も早い店は2時半くらいにスタートするし、遅い店は5時くらい。ちなみに、新聞の配送トラックは、紺色の幌付トラックでPRESSと白字で抜いてある。彼らは威勢がいい。新聞をすばやく届けることを使命としているので運転は荒めだ。
まずチラシの折込がまず行われる。専用の自動機械で折込作業が行われる。折込がされた新聞は、各区域ごとに分けられて朝やってきた担当がもって行く。
僕がいた店では本来の取り扱い新聞に加えて、副売という他紙も依頼されて行っていたので、読売、報知、毎日、スポニチ、産経、サンスポの配達があった。そのため組み込みという作業を行っていた。組み込みとは、配達する順に新聞各紙を並べるのだ。これは単独店にはない面倒な作業。20分くらいかかる。
並べ替えは「順路帳」という細長い帳面を見ながら行う。1ページに5件の家の名前を記入する専用シートで、新聞配達業界共通である。そのころには防水紙化されていたので、雨の中使っても大丈夫だった。昔は防水紙ではなかったので雨の後、破れたり乾かすのが大変だったそうだ。ちなみに防水紙でも、雨の日の後は丁寧に紙で拭かないと、いつまでたっても濡れたままになるから手間はそれなりにかかる。
順路帳は、代々の区域担当者が書き足していく。新聞の種類も書く。配達時の注意点も書き込んでおく。ポイントは順路記号というもので家の場所をガイドする点だ。「ト」は隣、「ム」は向かい、「ナム」は斜め向かいという風に、基本的な順路の流れを覚えれば、あとは順路記号を見れば分かるようになっている。この記号も新聞配達業界共通である。一度覚えれば業界内で転職するには便利で、合理的な仕組みになっている。
新聞を一人あたり、どれくらいの部数を配るのかだが、僕のいた店では300-400部程度だった。店自体で4000部弱あった。これらの新聞を新聞配達用自転車に積み込んで出発となる。
郊外の店だと一人200部くらいというところも多いと思う。郊外だと家と家の間が離れている(密度が低い)ので、配達に時間がかかる。そういう店はバイクを使ったりするが、バイクを使う店は楽なようで逆にキツい。つまり、バイクで移動しなければいけない距離があるということなのだ。配達がラクなのは、住宅が密集している下町や、超高層マンションである。マンションの階段よりも、平面で広いほうが仕事はキツいということは発見であった。
配達は、最初は引継ぎ時に先輩がついていてくれる。とはいえ、それだけでは順路は覚えられないので、昼間に順路帳を見ながら自転車で自分の配達区域を回って練習する。3月にはそういう配達の子を良く見かけるはずだ。それを「空回り(からまわり)」という。新聞を積まないで回るから、そのように言う。販売所の番頭さんから「空回りしとけよ〜」と言われて、覚えるまで回るのだ。下町だと、そうしていると、新人の子が順路を覚えているところと分かるので、おじさんやおばさんが「がんばんなさいよー」と声を掛けてくれる。割合とそのあたりは暖かく、ありがたい。
話は戻る。 新聞の組み込みが終わったら、新聞を自転車に積み込む。150部くらいを自転車の前かごと、後ろの荷台に分けて積む。残りの150部くらいは、配達区域の後半のマンションの1Fの陰なんかに運んでおいてもらう。
この新聞満載の自転車だが、最初はうまく乗りこなせなかった。前後に満載なのでフレームが歪んで乗りにくいのだ。左右に弓のようにしなる。最初の2日はまったく乗りこなせず途方にくれたものだった。それを見かねて、先輩が新しい自転車をゲットしてきてくれた。おかげでなんとか乗れるようになった。新しい自転車は偉大だ。最初に乗った自転車は3年ほど経過した古い自転車で、剛性が低下して、フレームが弱っていて、しなるのだ。
自転車が乗れるようになっても、重くて最初の1ヶ月くらいはひーひー言いながらペダルをこいでいた。まずは、自分の配達地域に自転車で到着し、そこから配達し始めるのだが、30部くらい配ったあたりで、へばっていた。息が上がってしまうのだ。そこで、へたりこんで10分くらい休みながら、やれるのかなあと不安な気持ちになったりした。そのときは休み休み配っていた。
また、最初は階段の上り下りでひざが痛んだ。マンションを配る場合、エレベータで最上階まで登ったあとは、階段を使って降りてくる。また、エレベータのないマンションやアパートなども多かった。配達を終えると熱を持っていてシップで冷やしたりした。
肉体労働なので仕事は割合とキツいが、とはいえ、逃げるわけにもいかない。順路を覚え、少しでも早くなるよう工夫し、頑張っていると1ヶ月くらいで、まあこなせるかな、という感触を得た。雨の日はキツかったが、頑張った。その後も、いかにキレイに配るか、いかに早く配るか、間違いをなくすかの工夫をした。毎日、配達にかかるタイムを計って1分刻みで短縮していた。
当時はとにかく必死だった。新聞配達の場合は調子が悪いからといって休むことはできないし、雨の日でも配達を遅らせるわけにもいかない。お客さんは待っているし、基本的に代わりはいないから、今日は休むとはいかない。
どうも僕が担当した区域は、少しキツかったような気がする。配達区域ごとにウェートのバランスに偏りが出てしまう。これは後でいろんな区域を配るようになって分かった。当時は、文句言わず、早く終わらないのが悔しかったので、とにかく頑張った。皆より時間がかかるのが悔しいので、同じくらいで終わるように分刻みで短縮をしていった。2時間半かかっていたのを、3ヶ月で1時間40分まで短縮した。
最初のころは、とにかく休み休みやらないと、息が上がってどうしようもなかったが、新聞配達を始めて4ヶ月ほどすると身体も出来てきて、1時間くらい走り続けても負担ではなくなるようになった。今の体格はこのときに出来た。それまではもっとヒョロっとしていたのだ。そう考えると、意識せずにカラダを鍛えることが出来て大変ありがたい経験だった。当時の僕は自発的に身体を鍛えるようなことはありえなかったからだ。神様の采配かもしれない。
新聞配達を開始して7月くらいになると、配るのは余裕が出てきた。走るのが苦でなくなり、配達区域の最後のほうには、ランナーズハイの状態になって、走るとむやみに多幸感が押し寄せてきて面白かったことを覚えている。走るって面白いんだと、自分の 20年間の人生ではじめて知ったのもこのときだ。それまでは走るなんて苦痛でしかなかった。何事も経験するに限る。経験が従来の認識を破り、新しいモノの見方ができるようになる。
キツい仕事というのは、キツいことはキツい。しかし、そういうのをやりこなした経験というのは、あとから凄く自分の糧になった。物事はやりきることが大事だ。そのやりきった経験が自信になる。キツいとき逃げる癖つくと、人生では何回かキビしい状況というのはやってくるものだが、そういうときに逃げてしまうことになりやすい。それではアカンと思う。仕事が出来るかどうかは、キビしいときに逃げないかどうかじゃないかと個人的に思う。いや、正確には、キビしいときに玉砕せず、逃げず、工夫なり努力なりしてなんとかする能力かなぁ。
同時期に入った中で1ヶ月ほどすると脱落する奴がいたが、あとは同期で仲良くしていた。仕事が終わった後に仲間と馬鹿話するのが楽しかった。専門学校の奴や予備校の奴、若い専業の子やら、いろいろといたが、夜中ずっと馬鹿騒ぎして、飯食いに行ったり、ピザ取ったり、ゲームしたり。そして、新聞配ったら寝るという自堕落な生活を送った。このころが僕の中では一番馬鹿騒ぎした時期で、学生らしい時代だったと思う。楽しかった。いろんな経歴の人に出会えたのもこの時期で、人生はいろいろあると思った。
ただ、この馬鹿騒ぎは楽しかったが、また勉強がおろそかになってしまった。なかなか反省しないものである。この最初の年は、馬鹿騒ぎで過ごし、受験の冬がやってきても、やはり東大に受からないので、もう1年、つまり5浪することを決めた。
2年目は代配になり、仕事は楽になった。苦労は報われる。代配は、担当が休みの地域を配る仕事で、あとは新聞の仕分けなどの雑用をしていた。どの区域でも楽に配れるようになっていたので仕事が回ってきた。
ところが、2年目の夏に仕事中に気胸になってしまい入院することになった。新聞配達の仕事は慣れたつもりでも身体に負担だったのかもしれない。このときの血気胸は割合と重くて、最初に歩いて行った病院がヤブで、治療判断が間違っているのに、ただ安静にとだらだらと入院させられ長引いた。怪しいので両親に頼んで転院させてもらったが、病院選びは大事だなと思ったのはこのときだ。トータル1ヶ月ほど入院した。
その関係で、新聞配達の仕事をやめ、当時、千葉・船橋に越していた実家に戻ることになる。そして、ボンヤリ秋を過ごしつつ、勉強を再開し、明治の商学部に入った。まあ、東大は受からないし、慶応も滑ったので、とりあえず行くかという感じであった。千葉大の後期を受けるか迷ったが、千葉大だと卒業後も千葉ローカルになってしまいそうで辞めてしまった。
このとき、販売店をやめるとき、モメた。見舞いに来た当時の販売所長(初年度に旦那さんがなくなり、奥さんが所長になっていた)に伝えたら、「ゆっくりでいいから続けてほしいんだけど」と言っていたが、あとから会うと、入院した日から退職することにされてしまって、社会保険の書き換えでエライ目にあってしまった。退職はギリギリまで言うものじゃないと学んだ。まあ、保険は1年以上社会保険をしていたので長期療養の保険が使えることが分かったので、何とかなった。何事も救いがあるものだ。
販売所長で、亡くなった旦那さんは、非常に出来た人で、皆から尊敬されていた。肝臓がんでなくなる1週間前まで、早朝から仕事を見守っていた。当時の僕らはそこまで病状が悪化しているとは知らず、亡くなってから聞かされて驚いた。この人から肉体労働の人のねぎらい方を学んだ。
配達から帰って来た子には「ご苦労さん」と声を掛ける。江戸っ子で割合と無口だったが、雨の日は身体が冷えているだろうからと、味噌汁を用意させて、帰ってきた子に飲ませた。ときには、カツやころコロッケを買ってきて用意したりして、帰って来た子たちをねぎらった。月一回は店ですき焼きを振舞った。そういう気配りの人だった。
その分、家には厳しかったのかもしれない。所長が亡くなって奥さんに代わると、今までのうっぷんを晴らすように奥さんは贅沢を始め、販売店は混乱し始めた。新聞が届いていないというクレームの電話は切ってしまうし、文句を言いにきたお客さんには「知りません!」と言ってしまったり。今から考えると、単に「奥さん」であって、家業に関するセンスがなかったのだろう。僕は入院日から退職にされた仕打ちから奥さんを憎んだが、今となっては、そういう人なんだなあと今では思えるようになった。自分がそうならないための鏡なんだろう。
僕にとっての新聞配達の経験は、最後は入院して終わる。
結局は病気で入院することになったが、新聞配達の仕事を頑張って自分のものにすることが出来た。僕には初めての経験だった。いつでもこの仕事が出来て、人よりもうまくできるという自信が生まれた。社会において初めての地盤だった。
仕事には「やったことがある」というものと「自分のものにした」という2つのレベルがあると思う。「やったことがある」というのは単にやったことがあるだけだ。でも、「自分のものにした」というのは、新聞配達屋のプロとして標準以上にできる、という認識だ。新聞配達という仕事は、それほど世間で威張れる仕事でもないが、それでも収入は確保できる確実な仕事だ。それがきちんとできて、いつでもできる、ということは後日、心強い拠り所になった。食うに困ったら、新聞配達をやればいいのだから。就職で困ったときも、最後の最後は、新聞配達を考えていた。これでかなり精神的に救われた。
人生は自分の陣地(拠り所)をどんどん広げていくことだと思う。学生のときは学校という拠り所があり、それが陣地であったりするのだが、そこは卒業したらおしまいの時限つき陣地だ。社会に入ったら新たに拠り所となる陣地を自分で作らねばならない。
就職活動とは陣地つくりに似ているが、会社を陣地とすると、会社から放り出されたら、無陣地になってしまう。だから、会社を陣地とするのではない方法で、自分用のセーフティネットとして、自分で陣地を築き上げる必要があると思う。僕は、陣地は職種に作るといいと思う。
まず僕は新聞配達という職種に陣地を得た。ここでなら人並み以上の実力が発揮できる自信もあった。そこにいる仲間も得ていたし、そこの人生も見た。でも、僕はもっとほかの仕事をやってみたいと思った。もっと何かと考えた。そうやって新しい陣地候補を選び、挑戦し、征服して、その領域では標準以上の実力を発揮できると確認できるところまでやる(=自分の陣地にする)ということをその後やっていくようになる。
ともあれ、1994年、23歳のときに大学に入学したのであった。ちょうどバブルが崩壊して暗黒の10年に入り始めたさなかであった。
(浪人時代編おわり)
大学受験5浪したときのこと。そこから得たこと。(後編)←ココ
浪人時代編のコンパクトなまとめ編を次に書こうかと。
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