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大学受験5浪したときのこと。そこから得たこと。(前編)

前回、私は就職するまでの話を書いて、次は就職後の話を書くつもりでいたのですが、その前に大学に入るまでの話を先に書いてみます。こちらもいろいろあります。

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大学受験5浪したときのこと。そこから得たこと。(中編)

大学受験5浪したときのこと。そこから得たこと。(後編)




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僕は大学には23歳で入った。大学受験で5浪したのだった。


5浪したことがある人にはまだ会ったことがない。わりあいと珍しいと思う。留年だとときどきいるけど、浪人はあまり聞かない。恥ずかしいから人に言わないのかもしれない。


僕は1971年生まれ(早生まれ)で、1989年3月(平成元年)に神戸にある公立高校を卒業した。昭和天皇が1月に崩御して平成が始まってすぐである。


ちょうどバブリーな真っ盛りなときで、また、第二次ベビーブームの大学進学ピークに近づきつつあり、浪人が増えつつあるときでもあった。


順当に現役で大学に入り、卒業すれば1993年3月卒となるところだが、結局、僕は5浪して1994年4月に大学に入った。


5浪には理由がある。


当時の僕はとても頑固であった。


自分の理屈を正しいと思う傾向があり、(今もあるが)そのころは特にひどかった。


高校生のころから、僕は教師に反抗的な面を持つ学生であった。おとなしい顔をして教師の言うことにあまり従わないので、先生によってはかなり嫌われたりした。個人的には反抗するつもりではないのだが、自分の理屈を通すと教師の側から見ると僕が言うことを聞かない生徒となるようだった。


当時の僕は「教師のことをあまり信用していないのだ」と自分を納得させていたように思う。でも、今から思うに、事情はもう少し違うと思える。大人である教師と生徒の関係は、父と息子の関係をある程度投影すると思う。少なくとも僕はそうだった。僕の父はほとんどコミュニケーションを取らない男であったが(今も連絡は取っていない)、そのためか僕は大人との付き合い方が良くわかっていなかった。それが不器用さにつながり、反抗するつもりでないのに、結果的に反抗的になってしまっていた。


高校時代は放送部に入った。きっかけは、小学校時代の友達のSと再会したことだ。Sとは気が合った。そのSが放送部に入ろうと思っていると聞いて、入るかどうか躊躇していた僕も入ることにした。もともと、放送部には興味があった。小学生時代に放送部に入っていて、機材いじりが好きな僕は小学生時代に録音と編集にかなりハマっていた。中学時代はテープを編集して友達に回したり、出力を上げたミニFM放送(違法)をして遊んだりしていた。そういう経緯があったので、放送部に入ろうとしていたSと再開したのは偶然だけではない流れみたいなものがあったと思う。


放送部は自由な雰囲気で、面白い先輩にも恵まれ、ラジオドラマ作りに励み、深夜まで仲間と機材で遊んだりして楽しんだ。オープンリール2トラックステレオはいろいろな遊びが出来た。ラジオドラマなら今も作れると思う。そのうち、僕の言動でなのか、顧問の先生に嫌われるようになり(トホホ)、何かと敬遠される関係で、部で活動するのが面倒になり、そのうちに機会があって生徒会に入った。生徒会で体育祭や文化祭の企画を立てて実施するのは楽しかった。出来る仲間と企画案を考えて議論しつつ人を動かすのは面白いと思ったのはそのときだった。そういうのは今につながっている。


勉強のほうは、高校に入ってからほとんど勉強しなくなった。好きな化学や物理などは特に勉強しなくても得意であったが、とにかく英語がサッパリで、英語はまったく分からなくなっていた。なぜ英語をやらないかというと、当時の僕には「理屈に合わない」ものだったからだ。どうにも英語と言うものは理屈に合わず嫌いだと思い、まったく勉強しないからますます分からない、という悪循環を繰り返していた。


大学受験では英語力でかなり苦戦し、浪人してからも英語をやらず(嫌いだから)、さらに受験に失敗することになる。多浪の主因となった。



分からないからやらない、というのは知的態度としてはとてもよろしくない。それは今だから言える。物事は初めから全部わかる訳はないのである。うまく行くかどうかは最初から分かればいいが、多くの場合はやるうちに分かる。だから、まずは分からなくてもやってみることが大事だ。そういうことに気がつくのに僕は時間がかかった。頭だけで考えていてとても頭でっかちだったのだ。このときはまだそれに気がついていない。


ちなみに、高校にいたころは工学部を目指していた。子供のころから機械いじりが得意だったし理科が好きだったからだ。これは浪人するうちに変わって来る。最後はビジネスを学びたいと思い、商学部に入ることになる。



現役受験ではどこも受からず、当時は神戸にいたので、1浪目は神戸にある予備校に通った。ここでは数学を割合とせっせと勉強して、なんとなくできるようになった。ところが英語があまりに出来ないので、どこも落ちてしまう。実はこのとき受験勉強に関しては同級生から大きなヒントをもらっている。これについては後で書く中編で。


2浪目に突入する。家にいると居心地が悪くなり、大阪の予備校で下宿させてもらう。このときは一番無駄使いした一年で、親には迷惑をかけてすまないと思う。ほとんど毎日ゲームセンターに入り浸っていた。ぼーっと時間をつぶすだけのためにゲームセンターに夕方から閉店の12時までいた。完全に逃避モードだった。今から考えると、どうしていいのか分からないという状態で、挫折の一種だったのかもしれない。挫折というほど一途に取り組んでいたわけでもなかったが、世界が狭かったのでどうしていいか分からなかったのだろう。神戸商船大学関学科にはなぜか受かったが、もはやエンジニアになる気持ちがなくなっていたので、行かずに経済学部志望に変更して3浪することにした。


3浪目は家に戻り、自宅で浪人する。原付の免許を取って原付でバイト先のマクドナルドで通いはじめる。バイトという形でも社会とつながりが持てないとおかしくなってしまいそうだったからだ。


このとき、原付の試験は3回落ちて4回目に受かった。ヤンキーでも受かる試験にこんなに受験したのも珍しいと思う。今考えるととても象徴的で、多浪の原因が端的に現れていた。


当時の僕は自分を過信していた。勉強しなくても受かると考えて1回目受験し、落ちたので教科書を読んで臨んで落ちたのが2回目、信じられずもう一度教科書の内容を勉強してまた落ちたのが3回目。そこでどうやら自分が間違っているらしいと気がつき、問題集を3冊買ってきて解かずに答えを書き込んで、その内容を覚えるようにしたら合格したのであった。


僕は、世間を知らない、自分を過信する、他人の言うことを聞かない、という問題があってそれが不合格ということに象徴的に現れていた。


試験というものは、出題側が決めた正解にどれだけ習熟できているかというものを問うわけだが、世間の常識(正解の知識)もなしに自己流の解答を貫くと採点基準で落とされるということなのである。


つまり、世間においては世間的な常識に無知なオレ的正解など何の価値もない、ということなのだ。今からすると当たり前のことだが、当時の僕は原付免許で何回も落ちたり、大学に何回も落ちたりすることで、やっとそういうことに気が付かされたのだった。


人生と言うものは面白いもので、こうやって当人に気づけよ、というサインを送る。それに気がつくかどうかは当人次第だ。気がつかなければ、また螺旋階段のように回ってきてしばらくすると違う形ながら同じ種類のサインが数年後に現れることになる。


3浪目は、バイトしつつ、しかし、勉強する気も起きず、バイトで買った原付で夕方まで神戸中を走り回っていた。楽しかったが建設的ではなかった。原付で走り回った夏の日の日差しと草の香りをよく覚えている。神戸の郊外は緑が多い。このころは逃避ばっかりだ。


まじめに勉強をやらねばと思い出すのは11月ごろ、寒くなってからだ。もう時期的に遅いのだが、やっと英語に着手する。どうやら英語は構文単位で暗記ベースを作ると良いらしいと気がつき、森一郎「試験がでる英語」や伊藤和夫「ビジュアル英文解釈」などを使い、構文知識と文法によって読み解くことが出来るようになってきた。せっせと構文を覚え、英文解釈を学習した。短期間だが急速に力がついた。このときの勉強がその後の英語で仕事をする基礎になっているので、人生は面白い。



とはいえ、これでは十分な学力は追いつかず、このころになると東大とか京大とか行かないといけないような気がしてきていた。3浪もしているのだから、それを挽回するくらいでないといけないような気がしてくるのである。これでさらにハマることになる。


今だから分かるが、失敗したときの挽回策で一気に取り戻ろうというような人生判断は良いとは言えない。


他人の言うことが聞けず我を通したゆえの遠回りだったのだが、その経験を通じて他人の言うことを素直に聞くということを学べたのは大きな収穫であった。とはいえ、既に遠回りなのであるから今回の勝負では安全策を取って次回の勝負に備えるのがいい。


ところが、そのときは安全策を取るべきということが分からなかった。この3浪でロスした時間を一気に取り返すべく大勝負をかけようと思った。野球で言うと、逆転ホームランを狙えば今までの失敗がチャラになってむしろプラスというような。


というわけで、行くなら東大だ、と無謀な目標を立ててしまうことになり、4浪することを決意してしまうことになる。



ちなみに、こういう場合大逆転の大勝負をかける手は良くない。


なぜかと言うと、こういう場合そもそもツイてないのだから、手堅く勝負をまとめるべきなのだ。大逆転の可能性は低い。むしろここは手堅く最小限の損害に抑えることを目指し力を温存する。そしてリズムを整えて次のツキのあるときに勝負をかけるほうがいい。


まあ、今となっては客観的にそういえるわけだが、当時はそういうツキに関する理屈が分からなかった。


ただ、こういうのは珍しい心理ではないと思う。人生で仕事などうまくいかないとき、確率の低いけど一発逆転となるチャンスに飛びついてしまうのはよく聞く話だ。人間は客観的に確率的に低い事象でも、現状の状態が悪く、それが当たると大きな収穫が得られると予想されるとき、確率を高めに見込む傾向がある。


仕事がうまく行っていないときに、そろそろ俺もツくころだ、と思って一発逆転の大勝負をかけてしまう。どうも気のせいかもしれないが、ツイてない人に限ってこの手の行動を取りやすいと思える。この話は科学的ではないので留保してほしいのだけれども、僕の経験的に言うとツキは連鎖するのでうまく行っていないときは大勝負かけてはいけない。


話は戻って、4浪を決意した僕は家を出て受験しようと考えた。新聞配達しながら受験しようと考えた。そこで東京の新聞屋さんを求人誌で探したのであった。僕は21歳 3月のことである。




中編につづく。

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