大学5浪、30歳で就職活動したときのこと(2)
昨日の(1)から続く。
......。
それから5年が経過し、2000年7月に至る。
今年で5回目の夏になる(会計士試験の受験は毎年夏にある)。
当時の僕は前年度の不合格から立ち直れず、調子も回復しないまま受験に突入していた。
2次試験は5月下旬の短答式試験と8月下旬の論文式試験の2回に渡る。5月の短答式試験で受験生を選抜し、合格者が8月の論文式試験を受験する。
この年の僕は短答式試験に落ちる。自動的に5回目の不合格が決まった7月であった。
「今年受からなければ受験はもうやめよう」と前年の秋には決めていた。最後の挑戦だった。
なので、短答式の不合格は会計士試験受験をあきらめることが決まったということでもあった。
5回目の受験は放心した1年であった。実のところ僕は4回目で燃え尽きてしまっていたのだ。
燃え尽きたとわかっても、こうした国家試験受験は引き際が難しい。卒業しても受験している場合、損得を考えると、試験に受かるまでやるしかない状況に追い込まれる。そうやって引き際が決められずに5年10年と受験を続けている仲間を多く見てきた。まだ続けている奴もいる。
今年受からなければあきらめると決めていたのはいくつか事情もあった。
そうしたいくつかの家庭の事情もあり受験は続けられない状況になっていた。アルバイトで家計を支えるようになっていたこともあり、試験に受かるか就職するかどちらかを決めねばならなかった。
2000年には29歳になる。このまま受からないまま受験を続けていては、どこにも行き場がなくなってしまうと思っていた。
そんなふうに僕を囲む状況はあまりかんばしくなかった。
当時の気持ちを今、振り返ることがある。
南極にある氷河のクレバスというものがここにあるとすれば、その奥を毎日のぞき込むような気持ちでいた。底なしの奥底をのぞき込んでいるような、油断すると深い深い裂け目の中に吸い込まれてしまうような気分だった。
「受かって救われたい」「逃げ出したい」「逃げ道がない」「勉強を頑張るしかない」「でも集中できない」「何にも理解できなくなっていく気がする」「もう駄目なんじゃないか」「そんなことない」という問答をぐるぐると頭の中で繰り返していた。
当時は船橋に住んでいた。船橋の商店街を抜けて、船橋大神宮近くの川を越えるあたりの歩いていたときの風景は、その当時の気持ちと共に忘れられない。
目に入る風景の何もかもが自分と関係がなく存在していた。誰にも助けを求められないんだ、という意識で心臓をつかまれたような息苦しさを覚えていた。毎晩、ウイスキーを飲んで寝ていた。ウイスキーを飲んで寝ると楽しい気分で眠れた。
もう受験をしないと決めたら、就職活動をするしかない。
むしろ少し気分が明るくなった。
ともかくも、あの受験勉強をしなくても良くなる。受験のプレッシャーから開放されて少しほっとした。
とはいえ、27歳で大学を卒業し、卒業3年間受験に費やして29歳で初の就職である。どんな仕事があるのか、そもそも仕事なんてあるのか、そうしたことを考えると心の中は暗澹たる気持ちであったことも確かだ。
それにしても慣れぬ就職活動である。何をしていいかわからない。
マトモな仕事はほとんどなかった。
仕事にあぶれたようなオジサンたちに囲まれて、自分の未来が見えたような気がした。
ハローワークに行くのはやめた。
就職情報誌で探すのが一番マシなようだった。
リクルートのBingを毎週買ってきては、自分にもやれそうな仕事を探した。
大学が商学部でもあることから、とりあえず営業職しか仕事がなさそうだった。会計士試験を受けてはいたが、簿記はもううんざりだった。経理系の仕事は探すのをやめた。
こうなったら営業しかやることがないか、と思った。
今でこそ営業を軽くこなせるようになっているが当時は営業から縁遠い人間だと思っていたのだ。
営業なんてとても出来そうにもない。対人恐怖もあった。それが当時の僕だ。
そもそも29歳までまともに勤めたことがないのだ。
その劣等感から、人と話すと劣っていると思われるのではないかと不安に押しつぶされそうになった。
転職情報誌をよく読むと、営業職というのはいろいろあることがわかった。
住宅販売、生命保険販売など、個人向けの猛烈営業なところは出来そうにないので避けた。法人向け営業でもコピー機やコーヒーサーバーなど、足で稼ぐ系の営業も向いていなそうなので避けた。
選んだのは、法人向け営業で、科学知識が活かせそうなハイテク商材を使うもの、できれば英語を使う仕事を探した。
今から考えると、割合と戦略的に自分の強みを把握していたことが分かる。理科知識+英語、というのは比較的ニッチであり、自分が相対的に強みを発揮できるニッチマーケットで勝負するというスタイルだった。おそらく今北純一さんの本を読んでいたのでそのおかげだろう。これから以降も本に多く助けられた。
当時はそこまで意識はなかったが、自分の好みや強みからするとそれくらいしかない、という割り切りで探していた。
29歳で初就職というのは実に大変だった。
当時は平均的な就職難の時代ということもあって、面接にたどり着くのが難しく10通に1通くらいだった。ほとんどが書類審査で落ちてしまった。
たとえ、面接にまで辿りついても、先方に微妙な表情をされたりすることも多かった。「就職探し大変でしょう」みたいに言われるのはねぎらわれているようで、馬鹿にされているようなトーンがあって、やっぱり、「そうですね。へへ」と愛想笑いするしかなかった。
そうした中で履歴書をせっせと書いては送っていたのであった。
7月は、7〜8通に1通の割合とはいえ、面接も週に1,2回くらいは受けられていた。もちろん採用が決まることはなかったが。
あるときは東証2部上場のメーカーには1次面接は通り、2次面接のために岐阜まで行ったりした。
この夏は記録的猛暑で、スーツを上下着込んで汗だくで行ったことを覚えている。
しかし、ここも不採用だった。
当時は中途採用の際に1〜2人しか採用しないケースが多かったように思う。そうしたときに僕の経歴では落ちてしまうようだった。
応募者の中で1,2番にならないと採用に至るのは難しいということが分かった。
競争社会は厳しい。1番か2番でなければ勝ち残れないというのは、現在の競争における鉄則であるが、実地で学んだことになる。
8月に入ると求人誌掲載の求人情報がガクンと少なくなった。お盆前は採用を抑えるようで少ないようだ。
お盆の週はまったくひまで履歴書を書く先もなくなった。
履歴書を送った1社から電話があった。「お盆明けに面接しますから待っていてくださいね」という。喜んで待っていたが、その後いくら待っても連絡は来なかった。その後の書類選考で落ちたようだ。
それならそんな電話してくれなくてもいいのに。新卒同様で面接を受ける側というのは、採用されるのを待つ受身の存在であるから弱いものだ。
こんなことがいつまで続くのだろう、という不安な気持ちだった。
なにしろ1番にならないと採用されないのであれば、僕の経歴であれば永遠に無理ではないか。そう思えてならない。
とはいえ、どこか採用してくれるところがあるに違いないと思い直した。
履歴書を100通書いてどこにも採用されなければ諦めよう、と決めてやりぬくことにした。
100通という目標にたいした根拠はない。それくらい書いて駄目なら受験を再開しようと思うことにして少し気が軽くなった。
厳しい状況のときは、小さくてもいいが目先の目標を立ててそこまで何も考えずにやり抜くのがいいと思っている。見通しの立たない頭でなまじに考えると迷う。
当時は、大海に独りで泳ぎだしたような気分で、どうしていいか困惑した。しかし、とにかく岸が見えるまで泳ぎ続けるしかないと考えた。就職活動で命をとられることはないし、僕には既に失うものは何もなかったからだ。
9月に入る。
少し涼しくなってきた。就職活動を開始して2ヶ月が経過した。
いまだどこにも決まらなかった。焦りが出てくるが、このころには半分は開き直っていた。
応募する先も緩め始めた。
面接に行ったある会社のメイン商品はショベルカーの爪だった。建機でショベルカーがあるが、あれのショベルの先端部には鋳鉄製の爪がついている。消耗品なのだが、メーカーの純正品に対してコンパチ品を扱うのがその会社で、会社の営業マンは若く、日焼けしたガタイの良い茶髪の兄ちゃんばかりだった。彼らが全国の土建屋さんからコンパチ品の注文を受けている。面接時には、まず入社一年目はカラダで仕事を覚えてもらうために、一階の倉庫で、その爪の鉄の塊を運ぶ仕事をしてもらうから、とのことだった。
なんか違うと思ったが、とにかく仕事がないので仕方ない。その会社で今度、海外取引を開始することにしたので英語が出来る営業を採ってみようかとなったらしい。
面接時にその取引の英文を読まされたが全然読めなかった。恐らく今でも読めない。あんな大仰な言い回しの商業英語を見たのは初めてだった。後で知ることになるが、普通の取引ではまったくカジュアルな英語が使われており、そんな様式の英語を見たのは後にも先にもそのときだった。
この会社の場合は、面接後に家に帰ってから考え直してこちらから断りの電話を入れたが、その数日後に、留守電に「あなたは不採用です。不採用です。」と2回繰り返した電話連絡をもらった。担当の営業部長はこちらから断ったのが不快だったようだ。世の中にはいろんな人がいる。
そうするうちにある会社に面接を受けた。
業界では中堅の専門機器輸入商社で設立から15年、社員が40名だった。
この会社に9月の上旬に面接を受け、入社することになる。採用されたのは、今考えても、縁であり運だと思う。
面接を受けていたときは当時の取締役営業部長のKさん。
面接でいろいろ聞かれて話をしていると、突然、後ろから、ぬうっと大きな人が出てきた。身長190センチ、色黒、顔は大きく、ポロシャツにチノパンというカジュアルな格好の、大きな人。後で分かるがこの人が社長だった。
そして、その人が、「お前は面白い。面白いな!」と言い出した。「Kさん、Kさん、採用してあげなよ。この子はこのままだとどこにも採用されないよ。ウチで採ろうよ。」と言ったのだ。
「このままだとどこにも採用されないよ。」という台詞に、正直に泣きそうになった。
しかし、その社長の一言でポンと採用が決まってしまい、あっけなくも、とにかくありがたかった。
というわけで、ありがたくこの会社に採用されることになり、僕の就職活動は終わることになる。履歴書もトータル70通くらい書いただけで済んだ。
ちなみに、運の流れというものはあるもので、同時に別な会社にも採用通知をもらったりしていた。こちらは部品輸入商社で、社長以下、ほぼ全員が60歳以上という高齢な会社で腰が引けてしまった。さきほどの専門機器輸入商社のほうが若く活気があった。
こうしてめでたく採用が決まったが、その専門機器輸入商社で僕が採用されたのは、当時は業績が絶好調で大幅な人員増を行っていたところからだと言える。
同時に採用されたのは僕を入れて5名。その半年前には5名採用していて、大勢採用していたので紛れ込むことが出来たと言える。恐らく1〜2名採用なら僕は採用されていないだろう。こういうのは運と縁だと思う。
採用が決まり、夜にバイトしていたカフェも退職し、2000年10月1日から出社が決まったのであった。
その後、その年の年末には、その社長から急遽、海外出張を命じられ、初めての海外、帰国後「お前は拾い物だ」と言われることになる。
それはまた次の話。そうなる流れを作ったコツがある。
以下、教訓ポイ話だけど。
先が見えないとき、迷いが生まれると思う。このままでいいのかな、と。この方向でいいのかな、とか。戻ったほうが良くないか、と。
僕らは未来を見たり出来ない。言ってみれば、時間に不自由な、先が見えない生き物なので、この苦しい状態がこのまま永遠に続くのかと無闇と不安になる。
例えると、2次元の世界を生きるアリの生活みたいなものかと思う。アリは数メートル先にあるものが見えなくて地面をうろうろして2次元の世界で生きている。僕らには3次元的に俯瞰して見て、容易に分かることがアリには見えない。
でも、僕らの人生もそれに似てて、僕らの人生は時間という軸でいうと1時間後に起きることすら見えなくて、この3次元の世界をうろうろしているように思う。僕らは常に時間は不自由。でも、この時間という軸を支配しているのは偶然ではなくて、縁や運だと思う。つまり、コントロールがまったく聞かないものでも、予想が立たないものでもないと思う。
苦しい状態は永遠に続くことは、本当のところはないのが真実。そして、その苦しい状態は次の段階に行くための必要な経験であったりすると思う。でもそのときはそれがわからない。僕らは先が見えないから。
先が見えなくて迷いが生まれることが人生ではしばしばあると思う。そういうときは、どこかにたどり着くまで貫いて進むことが大事。迷って、そこで進むのをやめてはダメで、それが分かれ目なんだと思う。
突き進んでいれば、必ず自分に連なる縁や、運の流れがあって、続けていくことで、流れから出会いが生まれてくると思う。突き進むことが縁を呼び起こすというかなんというか。
ところが、進むのをやめると、縁には出会えなくなる。だから、迷っても止まってはいけない。とにかく、小さな目標を立てて進み続けることが大事。
僕は人が挫折経験するのは良くないと思っている。克服することが出来ればいいんだけど、挫折で終わっている人もよく見かけるので。
僕が人にノウハウは何でも教えたり、鼓舞して頑張らせたりするのは、半端な挫折をして欲しくないと思っているから。小さな困難にぶつかって、クリアできないくらいで自分はこの程度と思って欲しくない。もっと高みにたどり着いて欲しい。挫折は癖になるので危ない。
困難に遭遇しいたとき、成功体験があれば何とかなるのに、挫折経験しかないと、人は折れやすくなると思う。苦しい状況で先が見えないときに、迷いだすんだけど、ここで先に進むのを躊躇してしまうみたい。後戻りしてしまったり。でも、そうすると決して困難の先にある領域にたどり着けないと思う。
だから僕は人に挫折なんかしてほしくないと思っている。僕は人生でかなり遠回りしてきたほうなのでなおさら思う。
迷ったら進む。どこかにたどり着くまで貫いて進むこと。
それをいつも思う。挫折なんて人生にいらない。
(おわり)