ビジネス本マニアックス

内藤による働く人のためのビジネス本紹介サイト⇒自身の30歳の就職活動についても書いたり。10年くらい更新止まっています。⇒「はてなダイアリー」から「はてなブログ」へ移転しました

自分の可動領域を広げていくのが課題(人生はリハビリ)

前日から引き続いて、人生のミッションの話です。宗教っぽいですが(笑)。


自分の身体を犠牲にして得られるものなどない、という話の続きです。


自分の可動領域を広げていくのが次に大事(人生はリハビリ)


身体を長持ちさせることが最重要のミッションだとすれば、次に重要なのは、自分の可動領域を広げていくことだと思っています。


例えるなら、人生はリハビリみたいなものです。昨日はここまで歩けた。今日はそれより何歩か先まで歩けた。または、先月までは肩はここまでしか回らなかった。少しずつ動かしていたら、もっと回るようになった。トレーニングで、少しでも遠くに歩けるようにしたり、肩が回るようにしたり。仕事も同じです。昨日よりも出来る範囲を広げていく。昨日より同じ作業なら短時間で出来るようにしていく。プランニングなら昨日より良い案を作れるようにする。そのために工夫していく。


僕は、別な記事で「自分自身を調教」と表現していますけど、「リハビリ」とも思っているんです。自分自身にトレーニングを課して、少しでも出来る範囲を広げていく。それを続けています


僕の人生は今までそんな感じで進んできました。人生はリハビリだ、トレーニングだと思うと腑に落ちます。なぜもっとすぐ出来ないのか、とか、思うとおりに出来ないのか、と、不満に思うのですけど、あるときからそれをリハビリなんだと思うようにすると、仕方ないかな、と。納得行くというか、受け入れるしかないというか。そういう風に生まれたのだから、それを所与としてどう生きるかだ、と。こういう自分の状態、身体のことは、無かったことには出来ないのですね。今あるがままで受け入れるしかない。来世があるかどうかは知らないけれど、とにかく今生は、このようになっているのだから、そこから始めるしかない、と。


このリハビリはずっと続きます。41歳までやってきたのですから、まだ終わりはないです今だって、先月より出来ることは増えました。ちゃんと進んでいます。


このリハビリには終わりはないんです。「今はリハビリ期間だから」という話ではないんです。最初から最後までリハビリです。「今はリハビリ期間だけど、治ったらバリバリやるぞー」というのではないんです。終わりなきリハビリ、過去も今も未来もリハビリなんです。いかに、トレーニングして可動領域を増やしていくかという課題をずっとやっていくのものなのだと思います。


人生のリハビリの進み方は一様ではありません。数ヶ月くらいは「伸びないなあ」と思うこともあります。行き詰まることもあります。でも工夫したり、努力は絶やさなかったりしていますから、また伸びだしたりします。人間関係なら苦しいときもあります。そういうときは感謝しまくってみたり、自分を見つめなおしてみたり。壁にぶつかったときには何か学びが得られたりするというのも経験から分かってきています。


こんなこと、他人は子供のときに気づいていたのかもと思うことがあります。でも、それは関係ないのです。トレーニングしている隣に国体の選手がいれば自分よりも初めからずっとよく運動できたりすると思います。だからといって、自分の可動領域を広げるのを諦めていいのか?というとそんなことはないですよね。それはそちらの人生。自分の人生でどこまでいけるかは自分の課題です。自分より出来る他人がいても、その人に自分の人生を任せることは出来ないのですから。だから、他人は関係ないのです。


また、例えとして、その国体の選手がいたとしても、その人にとっては、国体の中で何位になれるかという課題があったりするのです。つまり、人はそれぞれに課題があって、それに取り組んでいるのですね。


人はそれぞれスタート地点が与えられていて、そこから自分の可動領域を広げていくという課題を持っているのだと思います。


僕がイチローの身体能力を持って生まれたとして、体育の授業が楽になるなー、というのは許されない話なんですね。イチローは、日本のプロ野球選手を目指し、大リーガーを目指すほうへ進んだわけです。あれだって、イチローにとっての可動領域を広げていった結果でしょう。


逆に、10代から引きこもって30歳になってしまったとします。人生は積み上げですから、何も積み上げてきていない、どうしようとなっても、人生はリセットできないし、誰かのスタート地点に就くこともできない。今の何も持っていない自分の地点をスタート地点にして、歩ける範囲を広げていく、可動範囲を広げていくしかありません。もし健康だったら儲けものでしょう。


つまり、自分の出来る中で、自分の現時点をスタート地点として、毎日、自分の出来ることを少しずつ広げていく。また、身体が長持ちするように生きていく。この二つが大事だと僕は思っています。人生は最初から最後までリハビリなんだと思うと、腹が括れてスッキリすると思うんですね。

頑張るとは健康と引き換えに何かを得ることではないのです

頑張るとは健康と引き換えに何かを得ることではないのです
俺の身体がバラバラになろうとも、この試合には勝つ!走りぬく!

こういうマンガのシーンてありますよね。ドラマでも小説でも。

これ、仕事について言うと徹底的に間違ってますが、結構、不器用な人は勘違いする人が多いので書きます。かなり大事です。


「ウツなので頑張れないんです」「身体を壊して頑張れないんです」とコメント欄に質問を貰うんですが、そんな風に『頑張る』必要はないんです。『頑張る』にすごく誤解があるんです。


マンガや小説、ドラマなどのフィクションの影響のためか、私たちは何かを犠牲にしないと何かは得られないと思い込んでいます。なので、『頑張る』ことを、何かを犠牲に(主に身体や精神)することと思い込んでいる人がいるんです。


例えば、今の自分にはすぐに得られないような成果を目指す場合、身体とか心か何かを犠牲にすることで得られる、と思い込むことがあります。小説とかマンガとかそんなのばかりですよね。話としては面白いのですが、現実はそうじゃないんです。


自分に合わない仕事でも頑張って頑張って働いて、身体壊した、とかね。でもそれは間違いだと僕は思っています。


人生で最も大事なことは、自分の身体を大切に使って長持ちさせること、なんです。


これ以上大事なことはありません。身体の機能を損なうようなこと、寿命を短くさせるようなことは、決定的に間違っているのです。


そもそもね、自分の身体壊して得られること、ってありますか? 身体というのは、クルマとか印刷機みたいなものです。ある種の生物機械です。壊したら、クルマなら走れないです。調子悪くしたら、遠くまでいけなくなるのです。お金の印刷機としても、壊したら刷れなくなりますよね。お札印刷できないですよ。


僕たちがやるべきは、自分の身体をいたわり、メンテナンスして、何年経っても最高の状態を発揮できるように、性能を維持することなんです。使ったら休めて壊れるまで使わない。壊れたらすぐ修理する。それが日々のやるべきことです。


僕たちがやるべきは、同じ負荷でも、もっとアウトプットが出るように身体の操作方法を工夫したり、疲労が溜まらない操作方法をしたり、身体の休め方を工夫して疲労が蓄積しないようにしたりすることなんです。


今の人生では40-50年は働かないといけません。いかに身体を長持ちさせて、50年働けるようにするにはどうすればいいかを考えることが大事です。身体を50年使うというのはとても大事です。


例えば、僕はすごく健康には気を使ってます。風邪もできる限り引かないし。身体を温めて寝て、疲れを取る方法とか、熟眠の仕方とか、鼻のうがいとかね。胃のために、夕食では生野菜のサラダを欠かさないとか。精神的な気分転換は、帰ってきたらドラマ見て頭を切り替えたり、酒飲んだり、感謝を唱えたり。毎朝ストレッチは欠かさないし。朝はクエン酸黒酢取るし。たまにLシステインをうまく取ったり、そりゃいろいろ工夫してます。効果があるかどうかもありますけど、そういう工夫を重ねていくことで全然違います。夜のうちに疲れの9割は取ってしまう。だから翌日もフルで働ける。僕は毎日4時間寝れば、毎日13時間、週5日は問題なく働けます。身体も壊さない。5時間寝たらたくさん寝たなー、と思うし、11時間労働になると楽だなー、と思います。


つまり、頑張る、というのは、身体を壊す、のとは、まったく違うことなんです。仕事を頑張るというのは、身体の使い方を工夫してアウトプットを増やすことであり、メンテナンスの仕方を工夫して、毎朝完全な状態に戻す技術なんです。機械が壊れるまで使いました、というのは、クルマで言うと、素人の運転手なわけです。クルマで例えると、プロは運転はうまいし、速いし、安全だし、夜はメンテナンスを欠かさず、クルマを長持ちさせるんです。


だから、私はウツだから頑張れないとか、病気だから頑張れない、なんて心配は要らないんです。ウツならウツで、身体や頭の使い方を工夫してアウトプットを増やすことであり、メンテナンスして状態をウツなりの状態で回復させることなんです。病気なら、身体を修理しつつ使う。慢性なら、悪化しないように使う。身体が長持ちするように生きる。それが大事なのであって、世の中のフィクションにだまされてはいけないと思います。


とにかく、頑張る=何かを犠牲にする、というのは120%間違いだということを強調して強調してもしきれません。何かを犠牲にしなくてもアウトプットは得られるんです。自分の身体を長持ちさせる以上のミッションは私たちの人生には与えられていないんです。


ホント、超超超強調しておきたいことです。まあ、僕の個人的な信念なんですけどね。


俺の身体がバラバラになろうとも!なんて、ドラマだけでいいんです。



では、自分の身体を長持ちさせることの次に大事なことは何かという話を次へ。



(余談ですが)

この「何かを犠牲にすることで何かを得られる」というのは、私たちにかなり深くまで染み付いた考え方です。いけにえと同じです。

要は「贈与」の仕組みと同じなんです。貨幣経済の前の仕組みです。

「贈与」のうっとおしいところは、贈与されちゃうと、返礼の義務が発生することなんです。等価なものを返礼する必要が生まれるのです。個人間でも、これこれしてやったのに、という不満の生まれるもとですね。

これを未来に対して行うのが、今回の「身体を壊す」というイケニエの贈与だと僕は思います。未来に対して返礼を期待するわけです。しかし、贈与というのは人間にしか効きません。神様には贈与は効かないと僕は思っています。

教えてもらっていないんじゃない、自分で今まで気づけていない


前々日、前日から続きます。


■教えてもらっていないんじゃない、自分で今まで気づけていない


よく、仕事の出来ない人が「教えてもらってない」と言いますよね。僕は違うなーと思っていて。


人生では、元から教えてくれる人なんていないんですよ。デフォルトではいないんです。たまたま、教えてくれる人がいた、というだけです。


「教えてもらってません」というのは、学校でしか通用しない特殊な言い訳なんです。あと、アルバイトとか。それ以外でいうと、世の中は、教えてもらっていなくても知っている奴が強いんです。また、知らないことで責められるのも世の中の常識なんです。学校以外の世界はそういう構造なんですね。むしろ、学校が特殊なんですね。


だからこそ、人生の学びって、それに気づくどうかです。「教えてもらってない」のではなくて、自分で気づけるかどうか、なんですね。


つまり、今まで教えてもらったことがない=今まで気づけなかった、なんです。要するに僕を含めて、ボンクラってことなんです。


そして、そのようなことを今言うってことは、気づかせてもらったのだから、今学べばいいんです今学ぶ機会だという、それだけのことなんですね。


僕は、前々日と前日の記事で、仕事中に居眠りしない、ということを40歳で学び、39歳では、気持ちを定めて集中することが出来るようになったということを書きました。40歳前後で学ぶことか?というとそうでないように思います。子供の頃に学んでいれば良かった。今までの40年間もったいなかったし、たくさんのムダをしましたね。子供の頃、それを学べていたら人生は確実に違ったでしょう。


でも、それはしょうがない、と今の僕は思うんです。腹を括るというか。僕の人生はそういうことだらけです。ほかの誰かは子供の頃に気がつけていたことかもしれないのですが、僕にとっては、39歳と40歳のそのときが気がついたときなんですから、これは「僕のタイミング」と思うしかない。僕は、こういうとき、「これは僕のタイミングなんだ」と理解することにしています。


むしろ良かったのは、40歳の今でも、気がついて学ぶことが出来た、ということです。そっぽを向いて気づかない振りをしてしまったり、気づけなかったり、気づいても学べなかったら、今も出来ないままでしょう。僕は残りの人生は出来るようになって過ごすことができます。それは良いことなんですね。僕は、人生はどれだけ前進できるかということだと思うようになっています。自分にとっての最高到達点をどうやって伸ばしていくかというね。


気づけた、学べた、自分が変われた、というのは、人生で生きていてすごく楽しいことだと思います。ああ、もっと早くに気がついていれば!!ということほど、残念ではあるけれど、今気づけたことは有難いことなんですよ。逆に。それを居眠りと集中力の二つを学んだとき思いましたね。


そうでなければ、今でも、仕事中に居眠りは仕方ない、って思っていたでしょう(笑)。今から考えると、とんでもないことを考えていたものです。はは。


そんなところで。

自分の中の集中力のスイッチを見つける

前日分から続きます。


自分の中の集中力のスイッチを見つける


これまた恥ずかしい話ですが、僕は39歳のときに、自分の中の「集中力スイッチ」を見つけました。それをスイッチオンにすると、集中できるようになる自分の中のスイッチです。


逆に言うと、僕はそれまで集中することができない子(子供じゃないけど)だったんですね。


振り返ると、子供時代から、とにかく机に向かって一人で勉強はできないんです。もちろん、僕は授業中に歩き回ることがないし、テストもそれなりにできるので、いわゆる学習障害カテゴリとは違うのかもしれないのですけど、家で机に座って勉強が苦手で苦手で、どうにもダメでした。


今から思うと、僕はかるーい学習障害の一種だったのかな、と思います。LDかどうかのテストはしてるわけじゃないので、いい加減な話ですけど。知能が劣っていたわけじゃないし、気が向いたときに読むとすぐ理解できたり覚えられたりしたので、そういう力で誤魔化してきましたけども。


机に座って勉強が出来ないことが問題となったのは、大学受験です。あと会計士試験。とにかく机に向かって集中するというのが出来ない。あれには参りました。30歳で就職できたときも解決できていたわけではないのです。


机に向かって集中できないというのは、ホント泣きたくなくるくらいツライです。ふざけてるわけじゃないんですよね。本を開けても字が読めない。内容が理解できない。不思議なことに、授業に出ているときは分かるし、読めるんです。また、試験直前になると、内容は読んで直ぐ分かるようになるんですが、とにかく、試験直前とか以外の、そうでないときは理解できないのです。


これは、結局のところ、集中力が出せない状態だったのだと思います。とにかく、自分の集中力というエンジンが自由に回せないんです。


だから、どうしていたかというと、勉強なら試験直前までギリギリまで追い込んでから勉強する、と。ギリギリになると、集中力が発揮されだすんですね。でも、難しい試験だとそんなやり方ではカバー範囲を対応しきれないんですね。それで受験は失敗に失敗を重ねました。


では、働き始めてからどうだったかというと、実のところ同じです。自分の集中力は気まぐれでした。なかなか回りださない。だから、昼間は居眠りしたり、ウェブサイトみたりして時間を潰しつつ、夜になって、明日の締切に追い込まれてから、取り掛かることで対処していました。夜になってから、やっと集中力が出るようになる感じですね。出ない夜は、締切に余裕があれば、今日は仕方ないなー、と帰ったり。今考えると、サービス残業できる会社のおかげですね。定時でやれ、というのだと僕はアウトだったでしょう。


ただ、そういうギリギリ対処の仕方もヤバイなー、と思っていたんですね。というのも、自分のエンジンが回り始めるのが夜9時くらいとか10時くらいで、その仕事が10時間かかる場合、翌朝に間に合わせるのがヤバイことが何回かあり、間に合わせたものの、これではやっていけないな、と思うようになりました。仕事も忙しくなってきて、朝9時から夜10時までフル回転しないとキツイという状況にもなってきました。


そこで、自分の気まぐれな能力発揮をどうにかならんかなと考え続けていて、考えながら、自分の状態をよく観察するようにしたんです。


すると、自分の仕事が出来た状態(=集中力が発揮できた状態)の身体と心の状態がなくとなくつかめるようになってきたんです。感覚的に、この感覚、この状態になると、仕事ができる、集中できる、というね。


この部分は、とても感覚的な話で申し訳ないのですけど、でも、自分の身体のコンディションを「感じ取る」ということだと思っています。集中していないときと、集中しているときで、身体の状態がどう違うか分かるようになってきたのです。


例えば、夜9時ごろから集中し始めたときも、自分のその前後の感覚を記憶していって、集中し始めたときと、そうでないときの違いが分かるようになったんです。


そのうち、意識して、その集中したときの身体の感覚になるように努力することで、集中できるようになった経験がいくつかありました。それはコーヒーがぶ飲みだったり、ハイチュウ食べまくりだったり、そういうことをきっかけだったんですけど、自分の集中力のスイッチが分かるようになりました。


さらにその集中力スイッチの存在の感覚を感じながら、操作するうちに、抽象的ですけど、自分の胸の中に「集中力のスイッチ」が出来るようになったんですね。作り出したというか。頭の中で、胸の中にある集中力のスイッチをクイッと入れるようにすると集中スタートできるようになりました


このようになるのは、ステップバイステップでした。一歩一歩、集中している感覚を大事にしながら、集中力のスイッチをオンにする感じを読み取って、意識的にスイッチをオンにする経験を重ねていきました。そのうち、オンにするのに、コーヒーがぶ飲みしなくても済むようになりましたね。1杯飲んでスタートとかね。大事なのはコーヒーがぶ飲みではなくて、自分の中にあるスイッチなんですね。


ここでのポイントは、「仕事内容」に注目したのではないということです。そのときの僕にとっては、仕事は集中すればできるんです。出来ないのは、そこに意識を集中できないことにあったわけです。だから、いくら自分を心の中でなじろうとも、仕事を明確にしようとも、うまく行きませんでした。


結局のところ、これって、自分の調教だったと思います。集中するという精神状態、身体状態に持っていくことが自由な意思で出来なかった。僕はその自分自身の調教に39年かかったということなのだと思います


それで気がついたのは、中学生、高校生で受験勉強をやって好成績を挙げていた子たちというのは、こういうスイッチを操作できていたんだろうなー、と。そして大人になってからも、スイッチを操作できるから仕事ができるんだろうなー、と。そういうことに気がついたんですね。


僕はそれに気が付くのが遅かった。気まぐれで、それは「未調教」だったんですね。いかに自分を調教するか、自在に操れるようにするかというのが大事なんですね。僕はその点に20代に気づいて、自分自身を調教するようになったけど、集中力とか居眠りの調教は40歳前後までかかってしまったということなんです。


そんな話でした。

関連して、また次に続きます。

仕事中に居眠りしてた僕が寝なくなった理由

久しぶりに書きます。お待たせしました。


コメント欄では、質問をよくいただいていて、返信していました。コメントは本当にたくさん頂いていて、それに返信することで気づかされることも多かったです。そのあたりで気づかされたネタを書いていきたいと思います。


>コメントくださる皆さん、ありがとうございます。


■仕事中に居眠りしてた僕が寝なくなった理由


題名がバカですが、働き出してからも居眠りしていたのは、本当です。直ったのは、この2年くらいのことです。


僕はここで書いているように30歳で就職し(正確には29歳と10ヶ月くらい)、何回かの転職やら移籍やらの結果、都内の大きな会社の中で企画の仕事についています。大きな会社の中に移ったので役職はなくなりましたが、まあそんなもんでしょう。不思議です。縁とか運とかが作用した結果なのだと思います。


そんな僕ですが、2年位前から仕事で居眠りをしなくなりました。つまり、40歳くらいから寝なくなりました。


仕事中に居眠りしないというのは当たり前のことなのですが、僕にとっては、そうではなかったのです。僕は学生のころから授業を居眠りし倒してきました。高校生のころは本当に半分は寝ていました。先生の間でも有名でしたし。とにかく睡魔が襲ってくるのですね。抗えない。意識が落ちるのです。


そして、2年前までの僕はそれに対して開き直っていたわけです。「これは、ある種病気なんだから仕方ない」と開き直っていました。それも今から思うと、どうかと思うんですが、とにかく当時、というか2年位前までは、この睡魔という奴に連戦連敗、通算1万敗だったわけで、心は戦う気力を失っていたのです。夜8時間寝ようと10時間寝ようと関係なかったですし。


そんな僕が、なぜ寝なくなったかというと、必要に駆られたからです。


今までは昼間居眠りしても、夜のサービス残業で集中して取り返していたのですね。ところが、リストラで人員がいなくなってあまりに忙しくなったので、昼間の効率を落としていては追いつかなくなったのです。(居眠りしていてクビにならないのは、そうやって仕事をやっていたからだと思います。)


もう一つは、「居眠りが恥ずかしい」と40歳にして知ったから。今から考えると赤面モノですが、本当に居眠りをそのようには思っていなかったのですね。ほら、先ほども書いたよう「一種の病気」と思っていたから。運転していても居眠りしてましたしね。


特に二番目の「恥ずかしい」ってのは大きかったかもしれないですね。最近、自分が「オッサン」になったなあとしみじみ思うのですけど、その「オッサン」が仕事中に居眠りを!、その絵の情けなさに、想像するだけで寒気がするようになり、危機意識が出るようになりました。


■居眠りは工夫と意思と恐怖で対抗できる


僕は40歳くらいまで、居眠りには対抗できないと思い込んでいました。実際、小学生のころから居眠りしまくって、睡魔に負けまくりの人生でしたから、普通の人とは思い込みの深さは違いますよ。例えるなら、のび太に対するジャイアンみたいなもので、勝てる気はしなかったわけです。睡眠不足というわけではなかったです。


ところが、とにかく「寝ないんだ」と気持ちを強く持ち、眠くなるなり、背伸び、呼吸、濃い目のコーヒーを飲みまくり、ガムを噛み、飴を舐め、寝ている中年のオッサンの最悪な自分の姿を想像して恐怖心を起こして、とやっていると数ヶ月で寝なくなったんですね。


実にあっけないですが、眠気に対して全力で臨めば居眠りはしないんですね。僕の場合、実は病気じゃないからナルコレプシーとは違うわけで、単に睡魔に弱いだけ。睡魔に対抗する術を身につけてこなかったことと、対抗するという強い意志に欠けていただけなんですね。それを40歳にして知ったと。そういうバカな話なんです。


まあ、このように書くと、もはや中年男のバカな話なんですけど、これも似たような悩みの人はいると思うんで、参考にしてくださいな。睡魔以外にもいろいろあると思いますよ。今までの人生で連戦連敗している何か。食欲とかね。


自分の中から沸き起こる本能的な衝動に対して、どれだけ本気で戦うかという話なんですよ。敵は自分の中から沸き起こってくるので、言ってみると、自分の城の中にいる敵なわけで強敵です。僕も長い間、勝てないと思ってきた。でも、再度改めて、準備も決意も固めて戦いなおしたら勝てた、という話なんですよ。本能的な衝動にも、モノによっては対抗することは不可能じゃないって話です。全部が全部勝てるかは分からない。難しいのもあるでしょうけど、勝てるケースもあるという。そういう話です。


ちなみに、僕は今、居眠りしなくなりましたが、夜は3-4時間寝るくらいです。僕の居眠りは夜の睡眠時間とはほとんど関係ないんです。寝たほうが眠いというか。



あと、居眠りが解決できたことに関連する、もう一個の問題があって、それは39歳くらいのときに解決しているものがあるんです。それが「集中力のスイッチ」の話で、次へ。



(長いので翌日に分けました)

40歳男子のためのアンチエイジング 1.体臭対策編

40歳になってもうすぐ1年経つのですが、年齢とともに「老い」ってあるなあと。ただ、普通に「老い」て行くと仕事に差し支えるので、いかに抗していくか、ということで、40歳男子のためのアンチエイジングの話を書いてみます。

        • -

加齢による老いは進行する。これは避けられない。


僕も30歳くらいのときは、若いつもりでいたし、実際若かった。35歳くらいのときも、まだ若いつもりでいた。でも思い返すと、そのころから老いは少しずつ進んできていた。


振り返ると、アンチエイジングは35歳超えるころには、男も意識したほうがいいと思う。やったらやっただけのことはある。老け込むと仕事でのツキを落としやすいと思うのだ。


というわけで、これが正しいかなんともいえないけど、個人的にやってて、効果あるなあと思ったことをいくつか挙げてみる。大きく分けると以下のポイント。書いてみると以外に長くなったので、全6回構成にて。


40歳男子のためのアンチエイジング

1.体臭対策編(今回)

2.髪対策編

3.顔対策編

4. 腰痛・膝痛対策編

5.服対策編

6〜. 筋力・体力、回復力対策編



順に解説するとして、今日は1.体臭対策編について。


==================================
1. 体臭対策編

よく、加齢臭っていうよね。僕が今自分が加齢臭しているかどうか分からないんだけど、おっさん臭くなっている自覚はある。とりあえず中年の男の臭い対策は次の6点(特に最初の3点)で解決できると思う。


(1) シャワーをまめに浴びる

これしかないと思う。そういや輸入商社のころ思ったのは、取引先のアメリカ人のビジネスマンはとにかくシャワーを浴びる。朝、夕方、夜とか。たぶん臭い対策だと思うんだけど、大抵の臭いはシャワーで落とせる。石鹸の種類を考えるより、普通にマメにシャワーに入るのが一番いい。(とはいえ、忙しいと冬に毎朝入るのは厳しいものがあるけど、まー、中年なんだから仕方ない。)



(2) 下着〜ビジネスシャツあたりはマメに替える

これも大事。汗&油臭はまず下着につく。マメに替える。1日1回は必ず。パジャマもマメに替えたほうがいい。夏はTシャツにして毎日替えてる。



(3) 下着は2年以内に買い換える

これは盲点だと思うんだけど、下着は2年着たら捨てて買い換えたほうがいい。肌に接している下着はだんだんと汗臭さや油臭が残るようになる。洗濯しても、汗かいたときなんかのにおいが違ってくる。漂白したりすると多少改善するんだけど、完全には落ちないので、2年から3年くらいで買い換えたほうがいい。


僕は夏用と冬用で、シャツ、パンツ、靴下はそれぞれ10-15着くらい揃えてローテーションしてるのだけど、臭い対策のためには買い替えがベストと思った。特に40歳になると、結構、下着も長持ちして見えるから使ったりしてしまうんだけど、臭いはついてるから気をつけたほうがいい。捨てて新しくしていくべき。


(4) オーデコロン系の使用は慎重に

いい香りでごまかすことはできないと考えるべき。というか、自分では「いい香り」と思ったのが、周りからすると「おっさん的なキツイ香り」かもしれない。ブランド物だからとか関係ない。


どうしてもオーデコロン系を使いたいときは、肌にちょっとだけつけて、自分で匂わないくらいにしたほうがいいと思う。自分で匂わなくても周りは十分気づくので、匂わないくらいがちょうどいい。



(5) 足の臭い対策

靴を脱ぐと臭い人もいると思う。というか、男が革靴を1日履いてると普通は臭くなる。臭くしないためには対策がある。


まずは、靴を臭くしてしまわないこと。臭くなるのは、足から出る汗の高湿度と温度で雑菌が繁殖してしまうから。一度臭くなってしまった靴は捨てるしかない。靴を臭くさせないためには、次の5点を押さえる。

(a)1日履いたら3日あけて乾燥させるローテーションを組む。【乾燥】
(b)日中、可能であれば別な靴に履き替える。連続装用で靴の中を蒸らすのを避ける。【乾燥】
(c)毎朝履くときに、抗菌防臭スプレーをする。【除菌】
(d)靴下を新しいものにする。【除菌】
(e)足は毎日洗う。【除菌】

要は、雑菌を繁殖するのを抑えるよう、乾燥させる、殺菌する、雑菌がついた靴下、足を持ち込まないようにするのだ。


靴のローテーションを考えると、5足は少なくとも欲しい。そうすると、1足あたり月の使用回数は4-5回で済む。


靴下は、抗菌防臭を謳う靴下の効果に期待するより、1シーズンで使い捨てたほうが臭わない。


抗菌スプレーでいうと、僕は毎朝、靴を履く前に、中に向けて、花王クイックパンチを1ショットスプレーしている。クイックパンチは靴用じゃないし、使用は自己責任でお願いしますなのだけど、これの殺菌力はなかなかで夕方まで持つ感じで愛用してる。


(6) 口臭対策

タバコ吸う人は特に気をつけたほうがいいのだけど、歯茎の炎症や虫歯がある人は歯医者さんへ。あと、ウォーターピックがいいらしいけど、これは未経験。使ってるのはオムロン電動歯ブラシ。あと口臭は、もう一つあって、胃から上がってくるタイプ。いろいろ健康に気を使う必要があるのが口臭で、これは難しい。ただ、気を使ってケアしていくと改善していくのも確かなので、少しずつ改善したい。



そんな感じでした。


あんまり臭い臭いと気にしすぎるのも良くないけど、気にしない人は確実に「臭い」のでどうにかしたほうがいい。


僕もあれこれやっても、まったく臭わないわけではないと思うけど、なるべく一緒に働くマナーとして、気を使いたいなあと思う。「臭いなー」と思われていたら、結構仕事に影響すると思う。そんなことでマイナスになるのはもったいない。

    • -

資格は「社内転職」に使う、転職には「経験」を使う

ビジネス本マニアックス 内藤です。相変わらず貧乏暇なし状態なのですが、まあなんとか働いています。2011年は40歳になった年で、いろいろと気づくことがあり書き溜めたものがあるので、書いていこうと思います。

    • -

さて。本題。

資格は「社内転職」に使う、転職には「経験」を使う(主に30代)、について。


「○○という資格を取って転職しようと思う」というのを良く見るんだけど、僕は個人的に違うと思ってる。むしろ逆で、資格はあんまり武器にならない。無いよりはいいんだけど。それについて書いてみる。(もちろん例外はあるよ)


結論から言うと、30代について言えば、


1. 資格を取ると、現在勤めている会社の社内転職や昇進に役立つ。


2. 資格を取るのは、転職の武器にはなりにくい。


3. 転職の武器になるのは「経験」



その理由は、「市場」の需給状態。



解説すると、


資格というと、英語、簿記、MOS秘書検定あたりをイメージしてもらうといいのだけど(特殊な難関資格は除く感じ)、こういう資格が珍しい時代には転職でも武器になりうる。というのも、求職者で持っている奴が少ないから。もちろん、求人側でその資格者が望ましいスペックである、という前提も必要。


ところが今みたいに、学校やら教本が揃っている時代で、しかも、ネットがあるので情報も行き渡っていて、さらに、就職難となると求職者が資格で武装してくるのね。


つまり、資格で差別化できない。もちろん、あって当たり前、な場合は取っておくに越したことはない。だけど、武器にしようという戦略は間違い。また、資格を取るのに時間もオカネもかかるので、武器にならないなら、初めから捨てることも考えたほうが良いので、転職で資格は武器にならないというのは理解しておいたほうがいい。


要は、転職市場で、競合(他の求職者)はどうなってるかを意識しないといけないという話。


それで、社内転職や昇進に資格が役立つというのは(100%じゃないんだけど)、これも社内の人材市場の問題。


転職市場だと簿記とかMOSだの、英語の各種検定だのは、ありふれた資格になるんだけど、社内だと珍しいということになるのね。中小企業ならもちろんだし、社内を見渡して、この資格を持っている人間がどれだけいるか見れば、競合具合が分かる。


具体的に言えば、小企業で社内に簿記検定取得者がほとんどいなければ、社内で経理職に就きたい場合、簿記の勉強して、簿記検定を取っていけば、経理職になれる可能性はゼロじゃない。


転職市場なら未経験ではほとんど無理なのに比べるとずっと可能性がある。もちろん、社内のニーズがあるかどうかも確認しなければいけないけど。例えば、中堅の経理担当が現役でいて、仕事が増えているわけでないから1人で十分なら、経理職シフトは無理だけど、会社の業務が拡大していて人手が足りないとかそういう状況なら可能性がある。


どちらにせよ、求職側(競合)の状況と、求人側のニーズがあるかどうかを確認しなければいけないのだけど、社内の求人市場というのは、転職市場より競争が緩いので、ねらい目ということ。


3. 転職の武器になるのは「経験」について解説すると、こちらも転職市場の求職側を想像すると分かる。


資格は取りやすいので競合相手が持っている可能性が高いが、経験というのは、ある程度うまく行っている企業のビジネスの進め方のノウハウのこと。そこそこ成功している会社に勤めている人間は持っているであろうと推定されるので、こちらは競合相手が持っている可能性が低い。そして、求人側の企業はそれを求めていることが多い(もちろん、これは要確認)。


求人側が求めていないスキルは意味が無いというのもあるんだけど、転職の際に武器になるのは「経験」というのはそういうことだと思ってる。


まあ、だから、小企業⇒大企業転職というのが難しいのは、「経験」を武器にした転職はやりにくいから。というのも、小企業はビジネスで大成功しているとは言いにくいから、そこでのビジネスの進め方のノウハウはあんまり高くないと看做されてしまう。だから売り物になりにくいというのがある(実際はそうでないかもしれないけど、一般的には)。


逆に、大企業⇒中小企業転職がやりやすいのは、「経験」が武器になるから。こちらも実際に転職してみると戦力にならないケースも往々にしてあるわけだけど、そんなことはあんまり関係ない。


転職というのは、転職市場という特殊な取引で行われるものであって、転職市場では、求人側は頭数や資格や経験を求めているし、求職側は、資格や若さや経験を武器に売り込んでる。その中で取引が成立する(転職できる)のは、求人側のニーズに合う&求職者の中で優位に立つ、ということが必要。


だから、未経験でも転職できました!なんてのは、求人側が経験者を求めておらず、頭数が欲しかったか、ポテンシャルが欲しかったか、そういう状況にあった1例ということに過ぎないと思う。特に20代なら、「経験」なんて大したものはないので、むしろポテンシャルのほうを重視して求人側が採用していることが多いだろうし。


まあ、そんなことを書くのも、30代になると「経験」が重要になるケースが多いから。もちろん30代前半ならポテンシャル採用もなくはないのだけど。


だからこそ、30代であれば、今から資格を取ってそれを武器に転職しようと思うよりも、転職であれば経験を武器にすべきだし、資格なら社内転職・昇進に活かすことを考えて動くべきですよ、と。 まあ、そういうことを言いたいわけです。ときどき、この逆をやってる人を見るので。


繰り返すと、転職を考える場合、転職市場の求人側の求めているものが何か(経験なのか、資格なのか、ポテンシャルなのか、単なる頭数なのか)を知るようにすることと、求職側の競合を意識して差別化が出来ているか、何で差がついているかを知るようにすることだと思う。この市場の意識が大事。


特に、資格を取ろう、というのは誰にでも出来るので、競合が多くなりやすい点に注意したい。皆が持っていれば武器にならないということがポイント。


この状況は難関資格も同じだと思う。受験者が殺到していて合格者が増やされている難関資格は取得しても仕事がないということも起こりうる。取得の難易度と就職のしやすさは関係がない。


試験の合否と転職市場のマッチングは別な仕組みだから。試験の難易度を高くして合格者を求人数よりも少なく調整していた時代には、試験の難易度と合格後の職の得やすさは比例していたわけだけど、今はそうじゃなくなってることが多いから注意したほうがいいと思う。


とにかく、ゼロ年代以降の世は、資格過多なんだよね。この数十年くらいで、たくさんの資格が作られ、その合格者も数多く世の中に送り出されてる。有資格者が少ない時代は資格で差別化も出来たし、仕事もあったけど、今は状況が違う。昔のセオリーに惑わされないようにしないといけないと思ってる。


それから、転職市場は厳しいが、社内の転職市場はそんなに厳しくないことが多いので目を向けるべき。


ということでした。