忙しさはどこから来るか (2004年7月27日)
ああ、忙しい。なんてのは、今日は暑いですね、みたいな仕事の決まり文句だが、内藤は忙しさは頭の中から生まれてくると思っている。
頭が「忙しさ」を生む。そして、「忙しさ」は精神的に疲れさせる。肉体的にやることがたくさんあるのも「忙しさ」ではある。しかし、内藤は、忙しさには二種類あって、肉体的に忙しいのもひとつであるが、他方、精神的に「忙しく感じる」というのも忙しさであると思っている。そしてこの精神的に忙しく感じる、というのは、実際に仕事を滞らせるし、僕らの精神を結構むしばんで疲れさせる。そこで、精神的に忙しく感じることについて考えてみる。
そもそも、肉体的にやることがいっぱいあって忙しい、というのも、実は精神的な問題が結構かかわっている。というのも、いくらたくさんの仕事があっても、その道のベテランに任せれば、新人の数倍の仕事を軽々とこなしてしまうのが普通ではないか。これは業種を問わずいえると思う。では、ベテランが新人の数倍の体力があり、筋力があるのか、というとそんなことはないのである。ベテランは仕事の要領を押さえているので、新人よりも効率的に動けるから数倍の仕事が出来てしまうのだ。それは言い換えれば頭の使い方が新人と違うのである。つまり、新人はイチイチ、いろんな動作ごとに悩んで、しかも洗練されていない動き方をするので、能率が上がらないのである。つまり、新人はベテランの数分の一の仕事をしながら「精神的に忙しく感じている」のである。
つまり、ほとんどの場合、忙しい、というのは、自分の精神が忙しいと感じていることであり、現在の仕事の量や質に対して、頭の使い方が洗練されていないためにストレスを感じて頭が精神的に忙しくなるのである。そして、仕事で、精神的に忙しいと感じるというのは、個々の対処でイチイチ考えて逡巡しているということである。人間は肉体を酷使しても疲れるが、個々の対処でイチイチ逡巡しているのも猛烈に精神的に疲れるのである。
忙しいと感じるのは、仕事量が多すぎたり、質的に難しすぎたりするから、とも言える。だが、資本主義社会に生きていく我々は、年々、生産性を上げていかなければならない。常に生産性を上げていかなければならない我々の宿命下では、仕事量が多すぎるとか難しすぎるとか言っていると無能とみなされてしまう。それに、実際のところ、頭の使い方次第で、仕事は結構たくさんこなせるようになる。
少なくとも、自分の現在の頭の使い方が最善だと思い込まないことが大切だと思う。世の中にはもっともっと賢い方法があるのだ。それは頭の良し悪しよりも、どういう方法を使ってるかによる。思考法というツールの問題である。それを頭の良し悪しとすると工夫しなくなるからダメだ。
そこで、仕事をたくさん、質的に難しい仕事もこなすためにどうすればいいのかについては次のコラムへ。少なくとも、精神的に忙しい、と毎日思うことがなくなれば人生は毎日とても楽しくなる。毎日、逡巡することがなくなるからである。
(もちろん内藤が究極的な解答を持っているわけはない。とりあえず内藤は今はどんなふうにやっているかという話なのである。)
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