『連帯感』の有無が賛否をわける〜イラク日本人拘束事件〜 (2004年4月16日)
やあ。テレビ・新聞などで持ちきりだったイラク日本人拘束事件も、人質三人が無事解放されて、やれやれである。また二人拘束されてしまったわけで、完全に終わったわけではないし、しばらくこれは続くわけだが。
今回は議論が沸騰して、「他人事としてみている内藤」は、なりゆきと現象が興味深かった。とても無責任だが。アルジャジーラとかいう現地の放送局ががんがん映像を送るし、危険地帯に向かったその三人が無責任だの、自己責任の有無だの、被害者家族の主張がサヨクだのと話題にすべきことが多くあったことも理由かと思う。
まあその三人と誘拐したイラク人テロリストと、被害者家族の行為の良し悪しは別として、この三人と家族に対して賛否両論が巻き起こったことについて書いてみたい。
この三人に対して否定的な見方を示す人たち、例えば「自己責任なんだから国に迷惑をかけるな」とか「ジサクジエンだ」とか「家族の主張はおかしい」というような非難を思う人たちと、それに対して、三人を支持する、三人も不注意はあったかもしれないが、少なくとも先ほどの三人やその家族に対する非難に対して不快感を持つ人たちとの対立というのがあった。いや、いまもある。
この二グループを簡単に、否定派と支持派としておおざっぱにまとめてしまうことにする。というのも、この両グループはある一つの観点から簡単に区別ができるからだ。それは、『イラクの人たちに対する連帯感の有無』である。
イラクの人たちに対する連帯感がないと、この三人の行為は危険地帯に飛び込むアホにしか見えないし、そのアホを救出するために国費を使うのは無駄遣いであり、その誘拐したテロリストたちは特殊部隊で皆殺しにすべきであり、被害者家族はアホの一味であり、その一味がイラクの人たち支援の行為をするのでそれも許せなくなる。
他方、イラクの人たちに対して多少とも連帯感があると、そもそもイラクの状況(アメリカが無理やり攻め込んで政府を転覆させたとか、現在も米軍が支配し、戦闘で双方に死者が出ているとか)が許せないし、その米国に協力して自衛隊をどのような名目であろうとも派遣したのも許せないし、連帯感を感じているイラクの人たちを助けるためにあえて危険地帯に飛び込んだ若者は、多少の物知らずさもあったかもしれないが、許せる存在であり、自分はとても連帯感はあってもそんなことは出来ないなあと感嘆する部分もあり、さらにテロリストも良く見れば悪いやつではなく、虐げられたイラク人なのであまり責める気にもなれない。そして、日本人の多くが、イラクの人たちに対して連帯感のカケラもなく、拘束された日本人とその家族を口汚くネットでののしるのを見て幻滅してしまうのである。
このように見ていくと、今回の騒動は、その支持・不支持という点では、『イラクの人たちに対する連帯感の有無』できれいに分けられる。そして、日本政府高官や日本人の多くが、イラクの人たちに対する連帯感を持っていないというのも分かったのであった。
ただまあ、こういう『連帯感』というやつはそうそう持てるものでもないので(もてたら世界平和は間近だが)、意識的に連帯していこー、というようなサヨクな人たち中心になってしまうのだな。
こういう連帯感を求めるアプローチは、ヴェトナム戦争のときの反戦運動でもそれほど成功したとは言えなかった様に内藤は学んだし、その後のアフリカの飢饉とか、あちこちの紛争でも、やっぱり自国から遠いところの出来事に対して、国民の大多数が連帯感を持つというのは難しいのだろうなあと内藤は思う。
ただまあ、サヨクな人たちは、自分以外の世界に連帯感を持つ『べき』で、それが世界平和につながるというような思想を持つことが多いので、その『〜すべき』というのを他人に押し付けようとして喧嘩になりがちである。サヨクの人たちは、真理を学習する学習仲間的結合なので、自分たちが信奉する真理に反することを言う人は、無知で勉強不足と見えて、ついつい理屈っぽく説明を始めてしまうことが多いからだ。被害者家族の一部の人は、この騒動の最中に、自分たちの従来からの主張をやってしまったので、結構多くの人の反感を買ったように内藤には見えた。
確かに、皆がお互いに関心を持ってかつ『連帯感』を持ったほうが世界は平和になるに違いない。世界だけじゃない。近所で連帯感を持ったり、職場で連帯感を持つだけでも、平和になるに違いない。いがみ合いは格段に減るに違いない。
でも、やはりお互いに連帯感をもてないのは、勉強不足だけが理由ではないし、忍び寄る全体主義が理由なだけではないし、マスコミのせいだけではないと内藤は思うのだ。たぶん独りの人間が連帯感を持てる範囲というのは、理屈先行のタイプでない限り、顔を覚えられる範囲とかそういうような狭い範囲でしかないのじゃないかと思う。他人の顔とか生活に興味がない人は連帯感を持つ範囲も狭いだろうし、かといって、努力したからといって皆がそんなにワールドワイドに連帯感がひろがることが一般化するものでもないように内藤は思うのだ。
内藤は、『連帯感』という手法は限界が見えて久しいような気がするのだ。連帯感は、個々人の真の平等が前提になっている。そうでなければ連帯などできない。独立した能力のある個人同士が連帯していくのは、美しい理想だし、ひとつの理想形だが、人間はそこまで独立していないし、平等でもない。むしろ、あこがれられ・あこがれる関係で、よりよい人間像を目指して、いろんな人が多様な憧れられるモデルとなり、モデルを提示し、それぞれ憧れて自らを育てていくような形、そういう形でみんながそれぞれ成長するモデルが主流になるような気が内藤はしている。これは決してファシズムへの流れではないと内藤は思う。現代はファシズムの時代ほど単純でもない。そして、唯一の憧れではない、いろいろな憧れが存在する多様な社会は実現できると思うのだ。
ファシズムの時代ではないというのはどういうところで内藤が感じているかと言うと、無数のメディア、広告にさらされるようになった今の我々はすれてきているからである。例えば、北朝鮮拉致被害者家族の訴えと、今回のイラク日本人拘束被害者家族の訴えの微妙なテイストの違い(サヨクテイスト)を、いちいちマスコミに解説されるまでもなく、大衆は嗅ぎ分けてしまう。この点は内藤は結構感心した。さすがにオウム事件とか、さまざまな宗教事件などがあっただけあって、我々は結構な経験値を溜め込んでいるのだ。
そういう意味で、今回拘束された人たちや、被害者の家族の人たち、救出のために骨を折った人たちには申し訳ないが、外野にいる内藤からすると、いろいろなことがわかった騒動だった。何はともあれ、生きて帰ってこれたのは良いことである。
(ああ、この新サイトでは政治的なことは書かないようにしようと思ったのだが。)