ビジネス本マニアックス

内藤による働く人のためのビジネス本紹介サイト⇒自身の30歳の就職活動についても書いたり。10年くらい更新止まっています。⇒「はてなダイアリー」から「はてなブログ」へ移転しました

結局、みんな都会に集まって馬鹿騒ぎ (2003/01/06)


  政府の文献を「過疎化」で検索してみると、日本の田舎は過疎化がどんどん進行しているんだね。そして、東京と地方都市に人が集まっている。過疎化は少子化と高齢化の問題かと思っていたがそうではなくて、それ以上に、どいつもこいつも都会にやってくる、という現象で過疎化が進んでいるのだね。これは過疎地を抱える地方都市にとっては死活問題だなあとしみじみ思う。だが、これはもう、どうしようもない流れなのではないかと思うのだ。


  理由は良くわからないが、人間は都市にひきつけられるように出来ているんだな。そうとしか考えられない。それが都市に来ることが出来ないで田舎にいた理由は、さまざまな理由で田舎に縛り付けられていただけなのだ。他方、都市機能が進化してより住みよくなればなるほど、どんどん都市は集積に対応するようになり、住みやすさでの差も開いてくるし、田舎は仕事がないが都市にはある、ということになってますます都市に人が集まる。


  インターネットなどの情報通信手段が進むと、都市に来なくてもいい、かのような見方があったが実際のところはそうではなくて、都市に人が集まることは変わらない。ますます都市に集まる。これは面白いことだと思う。


  宅配便とかインターネットなどの通信手段の進展や、高速道路、新幹線、飛行機便などの交通手段の進展というのは、田舎に住む人にとって朗報であったりするわけである。また、田舎に限らず、忙しい都会人にとって、実際のお店に行くよりも、カタログショッピングやインターネットのショッピングも、これからのショッピングと言われたりしたわけである。


  しかし、そのどちらもが、必ずしもその期待通りにはなっていない。むしろ逆の結果になっている。田舎に住む人は、東京に出て行きやすくなると、ますます東京に住みたくなってしまうのがその傾向なのであり、インターネットのショッピングよりも、ますます実店舗で買い物したくなるのである。


  いや、人が都会を目指してやってくる傾向は、インターネットの中でさえ見られる。インターネットのウェブとか掲示板システムで言うと、人は人が集まるところに集まる、のである。皆が見るページを見たがるのだ。皆が集まる2chに集まるのだ。そして馬鹿騒ぎをやるのである。これをしばしば、実社会の秩序と比較をして批判する人もいたりする。


  だが、内藤は思うのだが、人が集まるところに皆が集まって馬鹿騒ぎする、というのは我々の基本的な性質ではないか、と言うことなのである。それが単にインターネットだと、集まりやすいために、その現象が観察されやすいだけではないかと思うのである。インターネットだと数時間とかで数千人が集まれたりするだろう。ところが実社会だと、東京にこれだけ集積するのに50年とかそれくらいかかってる。実体があると移動に制約があるので、時間がかかっているだけで、本当は誰もが「人が集まるところに皆で集まって馬鹿騒ぎしたい」のではないかと思うのである。


  我々は、都会である東京を目指して集まり、夜は新宿や六本木に集まって馬鹿騒ぎし、インターネットでは2chなどに集まって夜な夜な馬鹿騒ぎをするのである。それは理由は分からないが、我々が「人が集まるところに皆で集まって馬鹿騒ぎしたい」という基本的な性質を持っているからだと思うわけなのである。だから2chなどでの馬鹿騒ぎはインターネットの特異性ではなくて、インターネットの迅速性などの通信手段としての飛躍的な進歩が我々の行動を加速したために見られる現象だと思うのである。


  ひとは都会に集まりたい。インターネットのウェブの中でさえ、人は人が集まるところに集まる。皆、人が集まるところに集中的に集まりたい。そして匿名の集団である大衆となって馬鹿騒ぎと右往左往したいのだ。ま、この理由はなぜかについてはこのまま保留するとして。


  人がそういう性質を持つもので、今まで都市にこれなかった人は単に制約があったためであり、今後は産業技術の進展と、過疎化による田舎の社会の崩壊などで、さらに加速的に都市に集積していくようなことが流れだとすれば、過疎化対策で村おこしなんてのはほとんど得るものもない不毛な戦いなのかもしれない、とか思った。


  むしろまったく考え方を変えて、これから過疎化が進んだ田舎を我々は放棄していかないといけないのではないだろうか。廃村、廃町を自治体の側から進めていき、地方中核都市を整備し、そこへのあらゆるものの集積を進めていくことが今後30年くらいの間に必要になるような気がする。それこそが東京一極集中に対する地方の対策ではないのかなと思う。つまり、のんびり田舎暮らし、対、東京のギスギスしたウサギ小屋生活、という見方は空想上のものであって、実態は、医療もなければ仕事もなくモノもロクにない田舎の縛られた暮らし、対、おしゃれでモノも仕事も豊富で自由な東京の暮らし、というふうになっているのだろう。


  だから、インターネットという情報通信手段の進化は、都市と田舎の格差を埋めるのではなくて、むしろ広げる結果となるのだろう。そしてインターネットは物理的に距離の離れた大都市の文明や文化の交流をスムーズにする。つまり、ワールドワイドに広がった世界の大都市の文化や文明をお互いに近づける機能を果たす。この流れに乗るためには、人は大都市に集まり、そこの空気を吸い、文化に浸り、ネットワークに繋がらなければいけない。そして都市は、集積をどんどん進め大都市になることで、文化を支えられるだけの集積を得られないと、世界中の大都市と交流できる資格にまで辿り着けない。


  つまり、インターネットというのは、何か伝えるモノがなければ何の価値もないので、その伝えるモノ(コンテンツ)をとても必要としている。何か伝えるだけのオリジナリティのあるもの、イノベイティブなもののほとんどは、多くの人が集まり交流する都市で生まれる。ゆえに、大都市間の市民(コンテンツの支え手と消費者)こそがインターネットの主役となるのだ、とか思う。また、田舎に住んでいても、インターネットに繋がれば「都会の匂い」をかぐことが出来る。インターネットってそういうものなんじゃないのかなー、とか思ったのだった。


  人が都市に来たいのは、移民なんかを見てもそうだが、仕事が欲しいのと、自由になりたい(可能性を試したい)からかもしれない。都市にはそのどちらもがある(ようにみえる)。少なくとも田舎よりも。

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